2018年10月29日月曜日

ある科学者の戦中日記 富塚清著 中央公論社 昭和51年1月刊 感想


著者の富塚清という人は、昭和20年8月の段階で、東京大学工学部の教授であった。当時、50代の前半。

 日本人は、昭和20年8月15日をどのように迎え、そしてどのように経過していったか—というのは、筆者にはかってから興味深かった。
 富塚さんという人は、科学者らしく実に合理的で冷静に観察しておられる。

 8月15日、8月16日って、どのように経過していったのだろう。
 富塚さんの日記から抜粋、転記してみよう。

 --ここから--

8月15日
君が代 →天皇陛下の声 → 来るもの遂に来たれり。
総理大臣の放送、これには降伏の条件が述べられている。本州、四国、九州、北海道は残った。まずは万々歳である。一億玉砕にならずにすんだことは幸いである。
私も、うちの者も皆おちついた気持ちである。てきめんにウーはない。
新聞は、午後1時発行。夕方届く。
夕食の膳に顔をそろえたとき、誰いうとなく、「おめでとう」をいう。
「まぁ、新しい時代に生き残れたんだから、しっかりやろうぜ」皆うなずき合う。

8月16日
終戦後の第一日目。娘たち二人は元気よく学校に出かける。出かけに陽子は、防空頭巾を背負って出ようとして姉に「陽子ちゃんのばか。そんなもの、もう要らないのよ」といわれてはっと気づき、投げ出して出かけていく。
近所の小川さんを慰める。
「小川さん、このくらいで戦争がすんだのは上出来の方と思いますよ。もしここで終わらず、本土決戦まで行ったと考えてごらんなさい。今年の稲作は全滅となる。すると、この冬何を食べます?国民皆飢えてしまうじゃないですか。今片付いたので飢えだけはどうなりふせげる。北海道が残ったことも上出来ですよ」
「本当にけがが軽かったとつくづく思いますぜ。もう何ヶ月も頑張って、本土上陸となったら事だったね。交通はずたずた、家はことごとく灰。その上で手を上げたら、どうなります。家をなおしてくれたって、すぐには行かぬ。冬が来る。凍死だってでそうだ。今だけ家や鉄道が残っておれば、けっこうやって行ける」

私は午前中開墾。皆、今日はまだ、仕事をする気にならぬ様子。平然として、開墾などをやっているのは見渡す限りの範囲で、どうやら、私だけのようである。

8月31日も抜粋。
「日本敗れたり」という本の腹案は、自分にもあった。しかし出せるとしても、ずっとあとのこと。それまで、それまで相当の年月田舎に引っ込んで待機せねばならぬと思っていたが、このぶんでは予想外に早く出せそうである。「日本敗れたり」の構想を練りながら、心中で「我勝てり」という感慨も湧いてくる。これで、日本中に同じ気持ちの人間が相当にいそうに思われる。

 --ここまで--

 眼の前を流れる現象の核心部分を適確に把握する---というのは、吉村昭さんの「漂流」にでてくる長吉という人が「鳥島から生還しえた」理由であった。

 この実に単純な「理由」が、上でふれた富塚さんという人の日記からも浮かび上がってくる。
 幅広い知識に裏打ちされた「視野の広さ」、合理的・科学的な思考から可能となったものなのだろう。
 どんな困難な時代であっても、「眼の前を流れる現象の核心を掴む」ということの重要性は普遍だと思える。そのことが生死を分かつことにもなるのだ。