毎年、第九を聞いているのだが、いつも合唱の部分の「絢爛豪華さ」に驚かされる。
そして、ドイツ語の「フロイデ」という言葉に「鼓舞」されているように感じる。
日本の仏教というものが、日本化されていく過程は、段々、極楽へいく「資格」が緩くなることだ。
最後には、✕✕というお経を唱えて、お縋りすれば、皆、極楽浄土へ行けます—とかになっていく。
修行もいらない、艱難辛苦を経る必要もない。
第九 もこれを同じだ。
フロイデ、フロイデ、フロイデ---という言葉を正面から合唱団から唱えられると、もう、「いま、生きている喜び」「いま、働いている喜び」「いま、こうして文章を書いている喜び」というものに打ち震えてしまう。
日本へ他国から「ものごと」が入ってくると、たちまち、日本化され、大衆化されてしまう。<このあたり、芥川龍之介がなにか書いていたなぁ>
仏教が日本へ入ってくると、「お縋りすれば、皆、極楽浄土へいける」
第九が日本へ入ってくると、「フロイデ・フロイデという言葉を大声で唱えられると、皆、いま、こうして生きているという喜びに打ち震えてしまう」
いや、筆者はこういう日本人を嫌がっているのではない。
むしろ、愛おしい—と感じているのだ。
日本人って民族は、こう刹那的なのだな。
天国とか地獄なんてものを信じている訳ではない。<いや、自然界に存する大いなる意志というようなものは信じているのだが-->
日々暮らしている・生きている--この今という瞬間しか信じてはいない。
だから。
現実として感じておれる、いま—というものを大事にしたいのだ。
筆者の前の座席には、もう、腰も曲がって歩きづらい女性が座っておられた。
フロイデという言葉を理解されるのかどうかは分からない。
それでも、多分、あの合唱の部分を聞かれれば、筆者と同じような感想を持たれたに違いない。
こう、第九—すらも大衆化する日本という国に改めて驚かされてしまう。
第九を聞くということが、春の花見、秋の紅葉狩り—と同じような季節の習慣となってしまった。
来年がいい年になるように祈りたい。