2021年7月26日月曜日

倭の五王の謎 よみがえる五世紀の世界 安本美典著 廣済堂出版 感想

 

筆者はこの安本さんの著書が好きだ。日本史の世界に統計的な手法を持ち込み、とらえようもない神代の時代を、より合理的に説明され、常識人にも納得するものにされている表題の著書より、筆者の気になる箇所を書抜きたい。

1.安本さんは、「邪馬台国東遷説」の立場にたつ。邪馬台国は、北九州にあった。卑弥呼は、西暦250年前後に没する。280年~290年頃に、邪馬台国の後継勢力が、機内にはいり、大和朝廷をうちたてたと考える。西暦300年~400年の4世紀には、大和朝廷の力は、日本列島の広い範囲に伸長する。畿内を中心とする前方後円墳の各地への波及は、そのような史実を反映しているものと考える。天皇の平均在位年数約十年の年代論によれば、西暦400年前後の、大和朝廷の主役は、神功(ジングウ)皇后とよばれる女性であった。「古事記」「日本書記」をはじめとする諸文献は、この神功皇后が、朝鮮半島に大規模な出兵を行ったと伝えている。

2.倭王は中国から称号を受けている。:安東・倭王済は、中国から使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓六国諸軍事の称を与えられている。倭王武は、使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に叙されている。なんの実質もなく、客観的存在である中国から、これらの称号が与えられるであろうか。

3.「三国史記」の「新羅本紀」は、西暦393年に、倭人が攻めてきて、新羅の都城「金城」を囲んだことを記している。そして、「日本書紀」は、神功皇后が新羅を攻め、その王門に矛(ほこ)を樹(た)てたことを記している。「新羅本紀」は、西暦402年に、「奈勿王」の王子「未斯欣(みしきん)」を倭国に質に出したと記している。そして、新羅王が,奸策をもってその人質を本国へ逃がしたことを記している。ほぼ同じ話は、日本書紀の「神功皇后紀」に載っている。すなわち、神功皇后が新羅を攻め、「微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)」を質としたこと、そして新羅王が、奸策によってその人質を新羅に逃がしたことを記している。

4.神功皇后について:神宮皇后は、第14代仲哀天皇の妃、第15代応神天皇の母である。日本書紀の巻の第九、「神功皇后紀」によれば、神功皇后は幼少の頃から、聡明英知であったという。仲哀天皇の妃となり、天皇の没後、神の告げにより、「眼炎(まかがや)く金銀多なる国」を得るべく、諸国に令を発して、船と軍卒を集め、朝鮮の新羅の国を攻めた。軍船は海にみち、山河がことごとく震(ふる)うほどであったという。新羅王はくだり、船と柁(かじ)とを乾すことなく貢献することを誓った。新羅王は、金銀、綾羅などを八十の船に載せてたてまつった。新羅王がくだったため、高句麗、百済の王も、朝貢を絶たないことを誓った。

5.広開土王(在位391年~412年)は、高句麗第19代の王である。好太王ともいう。18歳のとき、父の故国壌王が没したので即位し、まもなく、百済を攻めて、漢江以北の地を奪った。396年、ふたたび百済を攻め、日本・百済の連合軍を破って、百済の王都に迫った。かくて、朝鮮半島の大部を支配下におさめた。広開土王の死後2年(414年)に、あとを継いだ長寿王により、広開土王の功績を記した石碑が、鴨緑江岸の通溝の東一里(中国、吉林省集安)の立てられた。その碑文は、碑の四面にきざまれ、41字づめ44行、1800余字からなる。碑文「九年己亥(399年)、百残(百済)は、誓いに違(たが)い、倭と和を通じた。(広開土)王は、平穣に巡下した。しかして新羅の遺使が、王に白(もう)していった。倭人は、その国境にみち、城池を潰破し、奴客をもって民としている。(広開土)王に帰(順)して、命(令、いいつけ)をいただこう、と。太王(広開土王)は、慈を恩(めぐ)み、その忠誠をあわれみ、遺使をして、還り告げ□させた。もって□□。十年庚子(400)、歩騎5万を遣わして、往って新羅を救わせた。男居城から新羅城にいたる。倭は、そのうちに満ちていた。官軍がまさにいたり、倭賊は、しりぞいた」

6、神功皇后三韓征伐と広開土王碑文等との整合性 ---安本さんのまとめをみよう。

・天皇の一代の平均在位年数を約十年とする年代論によるとき、神功皇后の時代は西暦390年~410年頃となる。

・古事記、日本書紀ともに、日本軍が、「新羅の王の門」にまでいたったと記してる。また風土記その他にも、新羅進出に関係する記事がみられる

・広開土王碑碑文には、391年に、倭が「来って海を渡り、百残(百済)を破り、□□新羅、もって臣民とする」と読める記事がある。

・「新羅本紀」は、393年に、「倭人が、金城(新羅の都)を包囲して、5日も解かなかった」と記している。

・広開土王碑碑文は、400年に、「倭が新羅城のうちにみちていた」と記している。

・三国史記は、402年に、「王子未○欣が、倭の質になった」と記している。

・広開土王碑碑文によれば、404年んも、倭は「不軌にも帯方界に侵入」している。

・広開土王碑碑文によれば、407年にも万を越える倭が進出している。

以上、これらを総合すれば、390年~410年頃に、日本側が、新羅の王城まで至ったことは確実である。

7.筆者なりのまとめ

日本の日本書紀などの資料の年代がズレ(古い方へ約120年)ていて、本来、神功皇后の三韓征伐と、広開土王碑碑文が整合性を持つはずなのに、そうなっていない—というのが、安本さんの主張の核心部分だ。