▲日本人って、ある年齢を越えると急に丸くなるなぁ。
あの唐(から)十郎さんが、丸くなった時はさすがにびっくりした。
若い頃の喧嘩騒ぎなどのドタバタを知っているもので、簡単に丸くなるなよ—と思っていたのだが。
ガンダムの富野監督もとうとう、そんな年齢となったようだ。
写真を見ると、もう、好々爺てな感じとなってしまった。
まず、記事を抜粋してみよう。
アニメ界を創世記から支えてきたアニメーション映画監督・富野由悠季。
日本を代表する作品『機動戦士ガンダム』の原作者としても知られる富野氏を取材。
『ガンダム』が世界に誇る作品に育った理由や、その著作権の行方など、エピソードを聞いた。
■自分自身が“生き延びるため”、オリジナルを手に入れるしかなかった
アニメ業界に入った時、「TVアニメの仕事というのは最底辺といってもよい仕事でした」と振り返る。
フリーになって青色申告をする際、5、6万円の経費を認めてもらうのに一苦労するほどだったとのこと。
「僕は30歳を過ぎて子供がふたりいましたが、40、50の年齢を超えていけるのか、果たして60歳に辿り着けるのか不安でした。
当時は出来高払いの仕事で、このままだと地獄だというのは目に見えていました」。
そんな時、高畑勲、宮崎駿といった質の違う人と出会えて、こんな人もいるのか!?
と衝撃を覚えたと述懐。
「高畑さんは東京大学出身でアニメの仕事をやっていて、当時の環境からしたら本気?
と思いました。
しかも、東大を出ている人がムキなって『アルプスの少女ハイジ』の話をするわけです」。
それを見た時、職業としてアニメの仕事をやってもいいのかな、と思えたと。
その頃、富野氏はいろんな現場の仕事をしていて、自分の居場所もなかった。
そんな時、日本サンライズという会社に虫プロから独立した人たちが集まり、「結局こういう場所でやるしかないだろう」と日本サンライズで働くことに。
当時、日本サンライズは新興会社のため、世界名作劇場のような割のいい仕事はとれない。
富野氏は「だから巨大ロボットものでやっていくしかありませんでした。
それで、ロボットものの仕事をしながら、自分はこのまま50、60歳までやれるのか…。
だったら、自分のオリジナルアニメを手にいれるしかない!」と考えた。
■『ガンダム』は自分が“生き延びるために仕掛けた”
サンライズで実績を積み重ねた富野氏は、『無敵超人ザンボット3』『無敵鋼人ダイターン3』『機動戦士ガンダム』の監督を歴任。
名実ともに日本を代表するアニメ監督となった。
「当時は著作権もあいまいな時代でしたので、3本目の『ガンダム』の時に著作権を自分で取れるようにとストーリーを描き、映画化も視野に入れて作りました。
スポンサーを騙しながら、そういう仕掛けをつくっていったわけです(笑)」。
つまり、『ガンダム』は自分が“生き延びるために仕掛けた”のであり、命拾いさせてもらった作品だと強調。
そして、富野氏が産み出した『ガンダム』が、40年近くに渡って支持されている。
しかし、富野氏はその点について冷静に分析する。
「人気がここまで継続したことを考えれば、僕自身の命拾いというだけのものではありませんでした。
僕ひとりが発案して『ガンダム』が成功したわけではない。
キャラクターデザインの安彦(良和)君、メカニカルデザインの大河原(邦男)君がいたから、でもないんです。
どういうことかというと、著作権があり、映像化権があり、商品化権があり、それぞれの権利を獲得し、それを分け合うためのシステムをどう作っていったか。そして、それを会社という組織でみんなが意識したから今のガンダムがあるんです」。
この総体的な動きについては、10年くらいたって気づいた。
■ガンダムの原作者・富野氏は著作権を譲渡した?
その顛末とは
富野氏はガンダムの著作権をサンライズに譲渡している。
その点について富野氏は「まる買いだったために腹立たしい気分もありました」と、当時の複雑な胸中を明かしてくれた。
一方で、だからこそサンライズは作品を作り続けてこられたと振り返る。
「もし、ガンダムの著作権を僕ひとりで管理していたら、マーケットは今みたいに広がっていないと思います。そう考えると、“ガンダム”は長生きしたと思っています。
その点、日本におけるアニメコンテンツの著作権管理の仕方も『ガンダム』が開拓していった部分はある」。
結果的に富野氏も生かされ、ガンダム周辺の企業全体も生かされたのだと。
■ベストセラー作家というもうひとつの顔。
そこに秘められた意味
富野氏は、アニメ監督のほかに小説家としての顔も持つ。
その点について「僕はノベライズもやっているんですが、その理由のひとつとして、“有名になりたかった“からです」と回答。
ただし、この場合の有名というのは、アニメだけでなく、ほかの部分に固有名詞を残すということ。
この意識を持っていないと、TV局、スポンサーや代理店という枠の中にハマってしまって、いち演出家、いち原作者になって埋もれてしまうのだと語る。
富野氏にとって、それがノベライズを書く理由のひとつであり、自分の名前を確立させるための方法でもあるのだと説明してくれた。
けれど、小説家としての活動の中で、自分に作家としての才能はなくて、あくまで請負仕事の職人だということも思い知ったのだと。結局は“現場のたたき上げ”の人間でしかないのだと。
「ただ、サンライズという町場のプロダクションから出発して、巨大ロボットもので75歳まで生きながらえたということだけは、まあ富野さんがんばったよね、と褒めてほしいですね」(富野氏)
▲補足、感想など
記事のような、穏やかな言い回し・穏やかな文章となったか—と感じる。
昔は、もっと尖っていた。
昭和40年代くらいかなぁ。
富野さんのようなアニメとか、sfの小松左京さんもか。
なにか、まだ、社会に認めてもらえなくて、日陰者扱いされた—そういう印象があるのだろうな。
だからこそ、尖っていて、過激な言葉を発していた—ということなのだろう。
ガンダムも40年くらいになる。
流石に、これだけの時間が経過すると、社会に受け入れられ、認められたということなのだな。