▲ふ~ん。
あの衆愚・キチガイ民族の中にも賢いのがいるのだなぁ。
それこそ、久しぶりに韓国人の書いた真っ当な記事を読んだような気がする。
どこらに核心があるのだろう。
日本語の「漢字かな交り文」は、「世界最強言語」だ。
日本の知性主義は、この漢字かな交り文という「世界最強言語」によって支えられている。
韓国が漢字ハングル交り文というものを採用するとなると、日本も韓国を見直すことになるかもしれないな。
以下、新聞から抜粋。
私たちの大韓民国は半島という地政学的位置上、隣接国である中国、日本などと文化的・経済的交流をしてきたが、3か国の共通分母は儒教と漢字だ。
昔の古朝鮮時代から現在に至るまで、我が国は漢字を通じて中国と緊密な交流をしてきたし、漢字を借用している日本とも持続的な交流をしている。
中国や台湾または日本などで行われる学術行事に参加したり、該当国を旅行して通りの道路名や店の商号を見ると、漢字表現により筆者はより一層親近感を感じる。
何日か前、筆者は台湾に研究出張に行ってきたが、その時に会ったチン・シンミン元大法官(最高裁判事)も、台湾から似た距離にある韓国と日本を比較する時、上のような理由で韓国を訪問する時より日本を訪問する時のほうが安らかに感じると言った。
数年前に国立台湾大学校法科大学の学長一行に会った時も同じ答えだったので、今回は別に驚くこともなかった。
我が国が引き続き中国と日本という強国の間で持続可能な繁栄をするためには、私たちの歴史と伝統をきちんと受け継いで温故知新すべきだろう。このような連結の輪の中心に漢字があることを決して忘れてはならない。
事実、筆者は私たちの文字であるハングルが世界で最も優秀な文字だと思って自負心を感じている。
発音記号で読まなければならない英語と比較してみても、ハングルは発音記号の必要がなく読むことができるという長所がある。
このことからもハングルがどれほど優秀な文字なのかをよく知ることができる。
このようなハングルと数千年前から私たちの文化に入ってきて自然に調和している漢字を適切に混合し、効果的に教育するならば、現代社会に要求される融合的な考え方を備えた人材をたくさん養成できるはずだ。
したがって、このような教育体系が充実し、蓄積されれば、遠からず漢字に造詣が深いノーベル賞受賞者、第2の元暁のような世界的な大学者が多く輩出されるだろう。
コ・ムンヒョン韓国憲法学会会長
▲補足、感想など
韓国人の性向では、ノーベル賞は遠いだろうが、まぁ、漢字ハングル交り文を採用するなら、ノーベル賞へ一歩近づいたことになるだろう。
しかしながら、今、漢字を採用するということは、この半世紀、漢字を習わなかった人々を「切り捨てる」という決断でもある。
韓国人の性向として「切り捨てられた人達」が黙っているかな。
二級国民扱いされて黙っているかな。
火病を起こして喚き立てるのが目に見えるようだ。
ちょいと、日本がなぜ漢字を捨てなかったか—という文章をみよう。
--ここから--
中国メディアは、「どうして日本は韓国のように漢字を放棄しなかったのか」とする文章を掲載した。
文章はまず、韓国が20世紀に漢字を日常的な文字体系から外したと紹介。
「歴史的に自らの命運を決められなかった国として、漢語文化圏から脱して独自の文字や言語体系を持とうとし、民族的な自信を高めようとする行動は理解できる」と評する一方で、同じく1000年以上にわたり中国文化の影響を受けてきた日本では「どうして漢字が配され、自ら開発した仮名に取って代わられなかっただろうか」と疑問を呈した。
そのうえで、実は日本でもかつて漢字の廃止を検討した時期があったと解説。
しかし、討論の末最後は残すことを選んだとし、そこには「漢字を廃することは単に文字を廃するのみならず、字が背負っている文化を捨てることになる。よく分からない愛国的偏向により漢字を廃せば、大きな損失になる」という考え方があったと説明した。
そして、今の日本では漢字を含む書道が小学校で必修となっているほか、本場である中国を大きく上回る書体が開発されていると紹介。
「日本の漢字や書道に対する熱愛ぶりは、自らの心の中から出ているものである」とし、漢字文化がもはや「中国のものではなく、日本の文化や魂を象徴するもの」として認識されていると伝えた。
文章は、漢字を日本文化の象徴と考える日本人に対して「われわれは怒るのではなく、むしろ喜ばなければならない。われわれの文化が極めて大きな伝播性と親和力を持っていて、その深さも計り知れないことを示しているからだ」とした。
そして、今の中国の文化人が考えるべきは「西洋文化の偉大さへの賞賛」ではなく、「中華文化の根っこを深く掘り下げること」なのであると論じた。
日本の言語文化を大きく発展させた仮名文字も、元は漢字から生まれたもの。
そして、漢字自体ももはや日本文化とは切り離せない存在になっている。
かつて、漢字の廃止は識字率の向上に寄与するとの観点から語られることもあったが、高い識字率を実現している現代の日本においては、廃することによるデメリットの方が圧倒的に大きいはずだ。
日本人は漢字文化を現代に至るまで大切に守り、発展させてきた。
同時に、アルファベットなど西洋の言語文化も柔軟に吸収して「日本語化」してきたのである。
文章は「西洋文化の偉大さを賞賛することを考えるのではなく」と中国の文化人に呼びかけているが、「西洋文化の優れた部分を探して取り入れるとともに、中華文化の根っこを深く探れ」と呼びかけるべきではないだろうか。
少なくとも日本はこれまで、そうやって文化を作り、守ってきたのである。
--ここまで--
つまり。
文字とは単に意思・情報を伝えるツールに留まらず、その民族の文化を支え、残していくためのものなのだということ。
だから。
文字を捨てるということは、保存し蓄えた文化もろとも捨てるということなのだ。
具体的に言えば、日本人が漢字を捨てれば、百人一首を捨てることになるのだ。
その「失うものの大きさ」に呆然としてしまう。
韓国の話に戻れば、半世紀も、「漢字に伴っていた文化」をも捨ててしまったのだ。
半世紀か。
上の記事の内容は真っ当で正しいと思うが、半世紀も漢字を捨ててしまい、漢字にともなう文化その他を捨ててしまって、現在に至っているのだ。<上の例にならえば、百人一首を捨てても、なんとも思わなかったということだろう>
掛け声倒れとなる可能性が高いな。