▲大学教授とか自称するアメリカ人のいっていることだが---。
まぁ、例によってピント外れであろう。
なぜポピュリストが日本にはいないのか—てか。
簡単なことさ。
日本は、その他おおぜい主義なのだ。
そりゃ、日本にもエリートはいるよ。
でも、日本の場合、エリート以外の「その他おおぜい」の水準が、世界のどの国よりも高いのだ。
エリートとその他おおぜいの「差」が小さいと言ってもいい。
そのことが、ポピュリストの出現を拒んでいるのだ。
まず、表題のアメリカ人の曰くをみてみよう。
Project
Syndicate(プロジェクト・シンジケート)
はNPOであり、各国の新聞をつなぐ組織。
専門家や活動家、ノーベル賞受賞者、政治家、経済学者、政治思想家、ビジネスから学者にいたる各界のリーダーによる論考や分析を会員の新聞および雑誌社に配信し、会員間のネットワークを組織している。
"日本には欠陥があるかもしれないが、日本は米国やインド、またはヨーロッパの多くの国よりも平等な社会を築けている。
富が富裕層に偏ることがあってもそれは控えめであり、日本社会が分厚い中産階級を維持できているため他の先進国や途上国を混乱に陥れている危機的な政治から逃れることができているのだ。"
右派ポピュリズムの波が欧州、米国、インド、東南アジアの一部を席巻しているが、日本は影響を受けていない。
オランダのヘルト・ウィルダース、フランスの極右政党のマリーヌ・ル・ペン、アメリカのドナルド・トランプ、インドのナレンドラ・モディ、フィリピンのドゥテルテのようなデマゴーグは日本には存在しない、政治的エリートに対する民衆の憤慨を利用し扇動する政治家たちが。それはどうしてだろう?
先に挙げた彼らに最も近い日本の政治家は橋下徹だろう、テレビのパーソナリティーとして有名になり、大日本帝国軍による戦時中の性奴隷の使用を賞賛し自分で自分の名前を汚した前の大阪市長だ。
彼の超国粋主義的価値観とリベラルなメディアを嫌う姿勢は右翼ポピュリストによく見られる特徴だったが彼は国政には進出しようとはしなかった。
その橋下徹は、国家安全保障法の強化に関する自由な助言を安倍晋三首相に対し直接与える立場にある。
その安倍晋三首相以上に政治エリートという認識を持たれている政治家はいないだろう。
彼の祖父は戦時中には閣僚で後に首相となった人物で、父は外務大臣だった。
しかし彼は政治エリートでありながら右派ポピュリストが持つリベラルな学者、ジャーナリスト、知識人に対する敵意を分かち合っている。
そしてここに日本に右派ポピュリズムが存在していないように見える理由の一端がある。
戦後の日本の民主主義は1950年代と1960年代に戦時ナショナリズムから日本を遠ざけようとしてきた知的エリート層によって影響を受けた。安倍晋三首相とその支持者はその影響を排除しようとしている。
彼が日本の平和憲法を改正し戦時中の誇りを取り戻そうとする保守反動的な努力をしていることから、中道左派の新聞『朝日新聞』などの「エリート主義」の主流メディアを信用せずにいることから、ドナルド・トランプ政権におけるスティーブン・バノンは安倍晋三首相を「Trump
before Trump」と呼び賞賛。
「安倍首相は、私が尊敬するリーダーの一人で、そのナショナリズムは本当に素晴らしい。…私は、大きく言って、安倍総理は“トランプが大統領に就任する前からいたトランプ”(Trump
before Trump)ではないかと思っている。」
ある意味ではバノンがそう考えたことは正しかった。
安倍首相は2016年11月に米ニューヨークのトランプタワーでのトランプとの初会談で「私は朝日新聞をおとなしくさせる事に成功しました。私はあなたがニューヨークタイムズを同様におとなしくさせる事に成功することを願っています。」と言った。一応は民主主義国家の指導者同士がこの様なジョークを言うのは甚だ遺憾だ。
これはこう言えるかもしれない。
つまり右派ポピュリズム的な要素が欧米のようにリベラルなエリートに反発する大衆に支えられる形でボトムアップで国の政治に入り込んだのではなく、エリート側の人間、それも日本の最もエリートな一族の子孫によるトップダウンによって日本の政治の中枢に存在していると。
こうした逆説的な状況が日本にルペンやモディ、トランプのような大衆を扇動する人物が出てこない理由となっていると考えられる。だがそれが全てではない。
"
デマゴーグが利用するのは大衆の憤慨だ、そして怒りは屈辱感や失われた誇りによって燃え上がる。
人の価値が個人の成功具合によって測られる米国のような社会では、有名人や金持ちが成功の象徴とされる社会では、それが相対的に不足していると感じやすく屈辱感を覚えるのが簡単だ。
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デマゴーグが移民や、都市部の人間や、知識人や、リベラルに対する大衆の憤慨を呼び起こすためには国の幅広い層に顕著な財政的、文化的、教育的格差がなければならない。
日本での事例としては1930年代半ばに起きたクーデター未遂事件がそれにあたる。
政治家と財閥系大企業との癒着や大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破すべく、
日本の政治腐敗の原因を政治家、銀行家、ビジネスマンなどであるとし日本の軍の一部が性急なクーデターを起こし失敗した。
クーデターはその多くが貧しい農村地域で育った兵士によって支えられていた。
彼らの姉妹は家族が生き残るために大都市の売春宿に売られなければならない状況にあった。
彼らにとって西洋化され洗練された都市に住むエリートは敵であった。そして世論も主に反政府勢力の側にあった。
だが現在は状況が全く異なっている。現代日本には欠陥があるかもしれないが、日本は米国やインド、またはヨーロッパの多くの国よりも平等な社会を築けているのだ。
日本では富が富裕層に偏ることがあってもそれは控えめであり、富が富裕層に偏るだけでなく世代間で継承される欧米と違い贈与税などの税金が高いことから富の継承を困難にしている。
日本社会は分厚い中産階級を形成/維持できておりその割合は米国を上回っており、トランプがそうであるようにアメリカでは物質的な豊かさが誇示されるが日本では富裕層の在り方も異なっている。
デマゴーグが利用するのは大衆の憤慨だ、そして怒りは屈辱感や失われた誇りによって燃え上がる。人の価値が個人の成功具合によって測られる社会では、有名人や金持ちが成功の象徴とされる社会では、それが相対的に不足していると感じやすく屈辱感を覚えるのが簡単だ。
極端な場合、絶望的な状況にある人は自分という存在を誇示するためだけに、ニュースに出るためだけに大統領やロックスターの暗殺を企てたりテロを起こす。
ポピュリストはそんな群衆の怒りによって支えられる。エリートが自分たちを裏切ったと感じる人々、自分たちの階級から、文化から弾き出されたと感じる人々、人種の誇りを失ったと感じる人々の支持を得るのだ。
これはまだ日本では起こっていない。それは日本の文化も関係しているかもしれない。
確かに日本にも有名人をもてはやす文化がある。だが日本では自己価値は個人の名声や財産によって定義されているのではなく、集団的企業、つまり組織に所在を置くことによって定義される傾向にある。
また日本では与えられた役割自体に価値と自尊心を見出す傾向もある。日本の百貨店で働く人々は商品を美しく包み込むことに、自分の仕事を心底誇りに思うようだ。
ぴしっとした制服を纏い銀行に入る客を笑顔を浮かべ迎え入れる仕事など必要なのか疑問に思う仕事もあるがいずれもそこに誇りを持っている。
全ての仕事が大きな満足感を与えると仮定するのは単純すぎる考えだが、少なくとも人々は自分の場所、社会の中での役割があるという感覚を持ちやすくなっている。
また日本の国内経済は先進国の中で最も保護されており、日本は最もグローバル化されていない国の一つだ。
日本政府がレーガン/サッチャーの時代から欧米で進められた新自由主義に抵抗した理由はいくつかある。
企業の既得権益もそうだし、官僚特権、利益誘導型政治(特定の集団の利益を図り、見返りに支持を得る政治)もそうだ。そして効率を犠牲にして雇用とそれに付随する労働者の誇りを残そうとしたこともその一つだ。
1980年代のイギリスでマーガレット・サッチャー政権によって推し進められた経済政策は英国経済をより効率的にした。
しかしそれは労働組合やそれまで定着していた他の労働者階級の文化を破砕し、政府はまた不快な仕事をしている人々がそれでも仕事を続けることができていた誇りをも取り去ってしまった。
効率性はコミュニティーの感覚、連帯感を形成しない。社会から取り残された人々は自分が置かれた窮地に対する不満を、より高い教育を受けグローバル社会により適応するエリートにぶつける。
その結果として米国の多くの人々が自身の富と成功、そして自身の天才性を自慢するナルシシズムの億万長者を大統領に選んだことは皮肉としか言いようがない。
日本でそういうことは起こりそうもない。私たちはその理由をじっくりと考えてみるべきなのだろう、そこにはきっと学ぶべきものがあるはずだ。
▲補足、感想など
アメリカ人的な理屈の立て方だなぁと思う。
多民族で隣り合わせに住むということの摩擦の大きさ、軋轢の大きさが推測できる。
しかし、橋下さんの記述は、アメリカ人から日本人への蔑視が絡んでいるようだな。
この程度の理解しかできないのか—まぁ、うすっぺらな、わざと晦渋にした文章としか思えないが。
冒頭でふれた。
日本の安定は、「日本の大部分を占めるその他おおぜい」の安定なのだ。
エリート以外が、これほど賢くて、知的水準の高い民族なんて日本以外にありえない。
筆者もその他おおぜいだが、この記事を書いた「大学教授のレベル」が推測できるよ。
もしかして、日本にいるevenki族達から工作資金をもらって、この記事を書いたのかもしれないと推測しているが--。
まぁ、ついでに書いておこうか。
日本にこれだけ、知的水準の高い「その他おおぜい」が存在する理由だが、それは「漢字かな交じり文」という形式を採用した日本語のお陰だ。
日本語という「世界最強言語」を採用したお陰で、文庫本なる本が存在して、筆者のごとく、3日に一冊、月10冊、年間120冊を読破しようと考える日本人が一杯いるということなのだ。
世界最強言語である日本語によって、日本の「その他おおぜい主義」というものが支えられているのだ。
そして、それがポピュリストの出現を拒否しているのだ。