中国の方向転換というより、「時代の変化に対応できないものは排除するぞ」--という「意味」ではないのかな。
識字率30%の民族をひっぱっていこうとしても、なかなかうまくいかないのだろうな。
それは、「文字が読める人=賢い部類」と「文字が読めない人=愚鈍な部類」と截然と別れるた、めだろう。
文字が読める層は、世界の流れに乗ろうとする。対して、文字が読めない層は、今の形を守ろうとする。
中国ほどの人口では、方向転換たって、簡単にはできない。
先覚者は、飛び跳ねてしまう。対して、文字の読めない愚鈍層は、なんのこっちゃと考える。そこに摩擦とか、暴動とか、殺戮が発生するということなのだな。
こう考えると、1980年代に天安門広場で1万人の学生達が、殺戮された理由がよく分かる。
彼らは、少数の「先覚者でありすぎた」のだ。
中国という大きな象が、方向転換するためには、もっと多くの時間が必要だし、もっと多くの国民が少なくとも文字が読め、文字が書けなければならないのだ。
そのことがなぜ分からないのか—とトウ小平さんは、泣いたのだろうな。1万人の学生達を殺戮する天安門での映像を見ながら---。
そして。
表題の件は、逆に「時代の変化に対応できない愚鈍者を切り捨てるぞ」と言っているのだ。もう、天安門事件のようなことはできない。
でも、中国という巨大な象が「方向転換」しかけた時、その現象の核心部分が理解できない・対応できない愚鈍者=中国の阿Q達を「なんらかの形で切り捨てるぞ」と言っているのだろうな。
以下、中国の新聞から抜粋。
中国の抗日ドラマでは近年、手刀で日本兵を切り裂いたり、日中戦争当時には存在しない武器が登場したりなど、史実とはかけ離れた描写が問題視されるケースが増えている。
中国のネット上で抗日ドラマは「歴史のわい曲」であるとして批判する声は根強く存在する。中国メディアは、中国では史実とかけ離れた描写のある抗日ドラマが「抗日神劇」と呼ばれていることを強調し、日本人が抗日神劇を見たらどう思うかを良く考えるべきだと記事を掲載。
抗日ドラマは視聴者の興味・関心を引き、視聴率を獲得するために誇張された描写が増えていると指摘する一方、こうした描写のある抗日神劇は「日本兵を弱く描きすぎであり、これでは多くの犠牲を払った先人たちを冒涜していることにつながるうえに、歴史のわい曲である」と批判。
さらに、抗日神劇は中国人ですら「見るに耐えない」と考えているというのに、日本人が目にしたらどう思われるだろうかと主張。
だが、中国の大手メディアが抗日神劇を批判したことが日本でも過去に報じられたことがあると紹介し、「日本人が抗日神劇を見たら、日本人は『中国人は自国の歴史を全く尊重していない』と考えるはずだ」と指摘し、史実とはかけ離れた描写を続ける抗日ドラマを批判した。
中国では毎日のようにさまざまな抗日ドラマが放送されているが、日本でも抗日神劇の内容を知っているという人も多いのではないだろうか。
事実、日本のネット上では抗日神劇の描写について怒るどころか、嘲笑する声も少なからず存在するのが現状だ。
▲補足、感想など
抗日神劇を、新聞で批判するという事実に注目せよ。
中国政府・共産党が、「抗日神劇を批判する」ことを承認したということだ。そこに、冒頭でふれた、「時代の変化」に対応できない人間は、なんらかの形で排除するぞ---という公式のPRではあるまいか。
「先覚者すぎるものは、天安門広場で殲滅した」「愚鈍すぎる阿Q達は、☓☓で殲滅するぞ」という意味を含めていないか。
そのあたりに、中国人の中で変化が出ていることがあるのではないのかなぁ。
--ここから--
2018年02月28日
2000年頃から8年程年に4~5回のペースで仕事で香港や中国に短期滞在をしていたが、この話はよく分かるね
香港人でとくにオタク趣味を持っている若い子達は日本で仕事をして日本で暮らしたいと皆言っていた。大学は日本だったが就労ビザがおりず泣く泣く香港や中国に帰った子も何人もいた
大学時代日本で過ごし香港に帰りホテルマンをしている男性は「日本にまた行きたい」ではなく「日本に帰りたい」と寂しそうに笑って言ったのが凄く印象的で強く記憶に残っている。
コッチが恥ずかしくなるぐらいの日本人が好きというアピールは日本人として誇らしい面もあったがやはり恥ずかしさが勝った。
これだけなら微笑ましいで終わる話なのだが、こういった子達に共通したのは自分達自身中国人や香港人なのに中国人や香港人を「未開」「野蛮」と嫌っている点。
中国人が中国や中国人の悪口を言い、香港人が香港や香港人の悪口を言う「日本人に比べて~」と言って心底自分達の国や同胞を毛嫌いしている点。
これにはさすがに同意も反論もできず黙って聞くしかなかったね。
--ここまで--
冒頭でふれた。
時代の変化というものに、余りに先んずる人間は、天安門で殲滅した。時代の変化に余りに追いつけない愚鈍な人間は、☓☓という形で殲滅するぞ—という予告ではあるまいか。