▲いや、仰々しい表題となった。
でも。
もう後なんど見られるのか分からないものを----。
せめて「文章」として、「言葉」として残しておきたい。
なんのことって。
大阪城の天守閣を満開のサクラの花の間から見上げながら、表題のごとく思った。
金曜日は、今年最後の花見びよりだった。
大阪城も、ことし最後だろう--というので多くの人がきていた。
それにしても。
回りから、中国語の会話が聞こえるのはなぜ?
あぁ、台湾からの観光客だろうなぁ。
この季節、台湾では日本のサクラの開花予想がテレビで流れるとか、また、日本への飛行機の切符が満席になるのだとか聞いた。
改めて。
日本という国は美しいなぁ—と思った。
確かに。
サクラは単独でも充分にキレイだ。
でも、サクラの美を際立てさせているものは、上でふれた「城郭」とか「天守閣」とか、サクラを一緒に楽しもう—という「伝統」とか「雰囲気」なのだ。
この春の「爛漫さ」を誰しもが等しく楽しみたい—という気分というか雰囲気なし--では本質的に「花見」なんて成り立たない。
それを可能なものとしているのが「日本の千年以上もの伝統」なのだ。
ひさかたの 光のどけき 春の日に
静心(しづごころ)なく 花の散るらむ
紀友則(33番) 『古今集』
う~ん、なぜ、千年も昔の歌が、こんなにも胸に響くんだ?