2017年7月25日火曜日

中国人も韓国人も職人を見下す

いや、職人というより、肉体労働者を見下す。
 なぜって?
 話は、簡単だ。
 中国人も、韓国人も、科挙にも合格しないような「頭の悪い奴だ・肉体労働しかできないやつだ」と見ているということだ。

 しかしなぁ。
 この見方、人間の能力の一部しか見ていない。
 人間の能力って、様々だ。
 必ずしも、頭脳だけで勝負というものではあるまい。
 科挙制度での出題内容って、四書五経あたりか---

 でも。
 世の中には、料理とか、木工とか---様々な分野の仕事がある。
 そういう「頭脳で勝負」以外の分野で、働く人間に脚光をあてることがない—という、偏った仕組みではあろう。

 対して。
 戦国末期、織田信長が、われこそはという職人達に「天下一」という称号をつけることを許したという日本とは対極にあろう。
 天下一といっても、その職種は様々であったという。
 畳の張替えから、壁を塗るとかもあったらしい。

 まぁ、日本で「匠」というものが、その地位を確立したのは、この織田信長の「天下一」からだろうなぁ。

 以下、中国の新聞から抜粋。


 中国メディア・今日頭条は「日本の職人気質から、『中国智造』の未来を考える」とする記事を掲載。
 「中国智造」は、メイド・イン・チャイナを意味する「中国製造」をもじったもので、自らの知財権を持つスマート製造業を示す言葉だ。
 
 記事は「歴史的に見ると、職人は現代社会以前の社会層だ。彼らの作業や労働は、主に自らの手によって完成される。
 産業革命後、機械化による大規模生産が手工業に代わり、徐々に職人に対する扱いは冷たくなっていった。

 しかし、大規模生産の時代に入っても、製品の精度や品質を求めるうえで、職人気質は欠かせないものだ」とした。
 そして、現代の日本では「職人という言葉には、極めて大きなリスペクトが込められている。
 ある分野において非常に専門的で抜きんでた力量を持っている人が初めて、職人と呼ばれるのだ」と説明。

 その一方で「はっきり言って、多くの中国人は職人に対して内心で偏見を抱いており、見下しさえしている」と指摘している。
 記事は、中国人が職人を軽視してきた背景の1つに、ある儒教思想に基づく考え方があると分析。
 「儒家による『読書だけが尊く、万般はみな下等なり』という理念に基づき読書こそが王道となり、職人が頭角を表せなかった
 それがある程度において古代におけるわが国の科学技術の持続的な発展を妨げた。
 今の状況も予断を許さない。

 みんな役人や社長、スターになりたがり、商売に夢中になる。
 教育においても依然としてエリート教育こそが成功の道だと考えられている」と論じた。
 そして最後に「現在、中国における職人や職人気質に対して、知識エリート層から一般市民に至るまで、客観的かつ公平な認識が欠けているのだ」と結んでいる。
 
 古代より「発財」、そして「発財」による一族の繁栄と安泰が人生のテーマだった中国社会。
 現代に入って価値観が多様化したといっても、このテーマは依然として中国人の行動様式をかなりの部分で支配している。
 それならばやはり、各分野の道を究めることで、「発財」と家族の安泰が実現できる制度を作る必要がある。精神論だけでは飯は食えないのだから。

補足、感想など

 核心は、歴史的な「科挙制度」の弊害だ。
 なぜ、はっきり、指摘できないのだ?
 どうも、中国人は、臆病者だな。
 自分達の歴史が「直視」できないのだな。その余りの惨めさのために---

 冒頭でふれた。
 日本の職人達が、己の技術を誇り、「天下一」と称したのは、16世紀末だ。
 職人たって、畳の張替えから、土壁を塗るとか、鏡を作るとか、傘張りから----様々な「己の技術を誇」って、「天下一」と称したのだ。

 以来、400年以上が経過している。
 今のメイドインジャパンの背景には、この「天下一と称した職人達の誇り」が脈々と引き継がれているのだ。
 そういえば、ニッサンの最大の排気量のエンジンの組み立ては、4人の人間にまかされ、エンジンには組み立てた個人名のエンブレムがつけられるという。

 中国人のいう「匠」がどうたらなんぞ、ここ10年位のものだろう。
 日本と較べてその歴史の無さ・薄っぺらさが理解できるだろう。

 だから。
 中国人の匠がどうたらなんぞ、笑ってしまう。
 まぁ、片腹痛い。