▲う~ん、数年ぶりに読み返して、改めて、マイクルクライトンという人の「知性の高さ」に驚かされる。
アメリカの流行作家として、例えばトム・クランシーとかいう人に較べて、このクライトンという人の「知性の高さ」は頭一つ抜けている。
本の説明では、「日米経済摩擦ミステリー」となっている。
日本の出版は1993年だが、書かれたのは、ちょうど、日本のバブル真っ最中であろう。
1990年頃、公定歩合を無理やり引き上げて、バブルを潰し、以後15年にも及ぶ「失われた✕✕年」を日本は経験した。
出版されて、丁度20年前か。
このライジングサンという小説で取り上げられた様々な日米の相違・行き違いなどが、それ以後どのように変化してきたのか—というのは、興味深いテーマであるとも言える。
とまれ、話が進みすぎた。
本の粗筋にふれながら、上でふれたようなことも筆者なりの解釈をしつつ感想を箇条書きとしたい。
あ、アメリカ・ロスアンゼルスにある日系の新築ビルの祝賀会の夜、若い女性が殺害された—ここから始まる。
市警の刑事?2人が捜査を開始すると、様々な圧力がかかってくる。
い、祝賀会を開いた日本の会社の社員が、様々に関与してくる。その関与のしかたが実にアイマイで、アメリカ人刑事は、イライラする。<まぁ、空気を読め—という日本人の行動様式の反映ではあるのだが-->
う、この殺人事件を撮したテープというものが存在していた。そのテープを巡って、また、殺人が起こる。
え、まとめ、全体の感想など。
こうして、箇条書きにしてしまうと、複雑ではありえないなぁ。でも、クライトンの手にかかると実に興味深いミステリーとなってしまうのだ。
この小説の至るところで、「日米の比較」というものがでてくる。
それが、日本の長所、アメリカの短所 という形となりがちになるのだ。
1980年代後半から1990年代始めにかけて書かれたアメリカの小説だ。
ある意味、「黄禍論」に近い感じの本となっているのだろうな。
しかし、クライトンの知性というものが、それを「仕組みの違い」「習慣の違い」というところまで消化していた。
アメリカの製造業に向かっても、日本と比較して鋭い批判をしているのだが、アメリカ人には「品質管理」なんぞという「小難しい理屈」は、民族として適性がないようだ。
それがGMなどの破綻に結びついていったのであろう。
表題の本が発刊されて、ほぼ20年以上を経過した。
クライトンが指摘した「様々な日米の差」というものが、なにほども縮まっていない—ということにも驚くが、また、今、読み返してみると日本も随分おとなしくなってきたし、また、アメリカも衰えたとは言わないまでも、えらく弱気だな--という印象をもつ。
まぁ、アメリカのgnp
などの数字をみると、依然としてアメリカって健在だなと感じるから、筆者の単なる印象だけかもしれない。
やはり、インターネットの普及が大きいのだろうな。
アメリカ人の日本へに理解が深まったし、また、日本人のアメリカ人への理解も深まった。
20年前より、確実に違うのはこの部分だ。
互いに幻想をみているのではなくて、「等身大」に近く相手を見ることができるようになった—ということだ。