▲たしかに。
日本人は英語学習に向いていないな。
でも、「脳」が—というなら、それは違うな。
核心は、英語というものを、日常どれだけ必要としているか—という「必要の逼迫度」の問題にすぎない。
中国語というものは欠陥言語だ。
あの漢字だけの文章で、微妙な細部に拘った論理的な文章が書けると思うか。<ためしに、中国語と日本語が併記された文章をみると理解できる。この中国語の文章がどうしてこんな日本語になるのだ--とあっけにとられる。それほど中国語を意訳・補わなれば日本語として理解できない>
中国人が英語を必要としているのは、上でふれた中国語では緻密な論理的な文章が書けないという欠陥を「英語使用」で補っているだめだ。
つまり、英語を使用し補わないと論理的に情報がうまく伝わらないのだろう。
はっきりしたことは分からないが、毛沢東主席は、日本語を使ってマルクス思想を学習したのだとか。
つまり、毛沢東はある程度、日本語を理解することができたらしい。
それもあって、先の大戦後、日本語から「かな」を導入しようと周囲のものに提案したようだ。
ところが、周囲のものが大反対したため、「かなの導入」が見送られた。
この時、思い切って「かな」を導入していれば、漢字とかなを使って論理的で深い情報のやりとりができた筈だ。
導入しなかったばかりに、中国語の欠点を「英語」で補うという選択肢しかなかったのだ。
<ついでながら、日本の敗戦から35年も経過して、トウ小平氏の改革開放政策が始まる-なんてノロマなこともなかった筈だ。もっと、早い時期に始まっていよう>
<ついでながら、日本の敗戦から35年も経過して、トウ小平氏の改革開放政策が始まる-なんてノロマなこともなかった筈だ。もっと、早い時期に始まっていよう>
だから。
中国人は必死で、英語を勉強する。そうでなければ、深く情報をとりいれることができないのだ。
これが、上でふれた日中の「逼迫度の差」なのだ。
以下、新聞から抜粋。
2014年2月12日、文匯報によると、
2020年夏季東京五輪、パラリンピック組織委員会はソチで、記者会見を行った。
席上、組織委員会会長の森喜朗元首相は、自身の英語レベルは高くないと自嘲し、
海外メディアの質疑に応じた。
中国新聞社が伝えた。
報道によると、日本人は決して「英語堪能」で栄えているわけではなく、
エリート層のシンボルととらえられており、一般市民の英語レベルはずっと平凡なままだ。
だが東京が2020年夏季五輪を開催することになり、日本政府は英語学習を強く推進し、
五輪期間中に市民が外国人と「会話が通じないことのないよう」意気込んでいる。
米ETSがこのほど発表した報告は、日本人のTOEFLの平均点はアジアで後塵を拝し、
北朝鮮よりも低いと指摘した。
日本国民の英語は「ありがとう」「おはようございます」「さようなら」
など基本的単語に限られ、大学生は往々にして英作文には抜きん出ているが、
会話・意思疎通は死角のようだ。
日本人は平均3000時間の英語学習をしていながら、半分の実力しか出し切れていない。
東京医科歯科大のk教授はこれについて、科学的解釈をしている。
いわく日本語は「単脳言語」だが、英語は「複脳言語」であり、
日本人が日本語を話す際には左脳のみ用いて情報を処理するが、
英語を話す際には左右両方の脳を併用する必要があり、言葉のメロディーとアクセントを処理する。
日本人の英語学習には先天的ハンディーがあるようだ。
▲補足、感想など
日本語の「漢字かな混じり文」は、英語に匹敵するぐらい「優秀な言語」だ。
大学院レベルまで、自国語でできる—という国とか言語がどのくらいあるか?
それこそ、数える程であろう。
日本語は、その中に入る。
それは、漢字とかなとを交じり合わせて、いろいろな表現ができることからであろう。
日頃、使いなれているものだから、日本人は自国言語の有能さになかなか気がつかない。
まぁ、そんなことで、日本と中国では、英語を必要とする「逼迫度」が違うのだ。
だからといって、英語ができないことを自慢するというものおかしいが。
そういえば。
海外の掲示板をみていると、日本のアニメを見続けていて、日本語が分かり始めた-という人がいる。
反対に、英語での映画とかをみつづけることで可能なのかもしれないな。
ただ、それほど見たいという英語のコンテンツがないのだが。