▲中国人の書いた記事で、マンガに関してここまで理解したか—という感想をもった始めての記事だな。
なるほど。
中国人は侮りがたい。
現実に中国でつくるマンガ、アニメにロクなものがないが、とにもかくにもここまで理解したか—ということでいささか驚いた。
まぁ、実際につくるマンガ・アニメについては、中国の政府が現在の共産党である限り、日本を越えることは無理であろう。
でも、理屈の上では、かなりのところまできたようだ。
以下、人民日報から抜粋。
東京の新宿駅の付近に、独特の形状を持つビルが建っている。
これは、東京モード学園のコクーンタワーだ。
東京モード学園は漫画・アニメ専門学校の大手だ。
日本社会における専門学校は、中国の大専より高い名声を得ている。
「一休さん」、「ドラえもん」など、名作を数多く生み出してきた日本のアニメ・漫画界が誇る影響力は、その創造力から生まれている。
では、創造力はどこから養われてきたのか?
これについて、中国人に質問してみると、皆、
「創造性を持つ才能の育成や知的財産権の保護を重視していることが、重要な要素となっている」と。
日本のアニメ・漫画産業の発展には、日本人のある考え方が影響している。
それは、「アニメ・漫画は子供だけのものではない」という考えだ。
1970年代、漫画やアニメのターゲットは幅広い青少年や中年層であることに気付いた。
そのときから、
日本のアニメ・漫画産業は 映画や商業音楽と同じように独立した形で発展していった。
1980-90年代、
日本のアニメ・漫画産業は中学や高校、職場、虚構の世界などを舞台にした作品を大量に生み出してきた。
その中から、宮崎駿のようなアニメ作家や秋葉原などのオタク文化スポットなどが生まれた。
「成長」、「青春」、「熱血」などが代表する青春期の少年少女の心理描写を軸に、
日本アニメ・漫画の独特なスタイルが形成されのだ。
同時に、知的財産権の保護も重視され、
日本漫画の創造力を保ち続ける原動力となった。
日本で一番漫画を買う層は、中学生だ。
日本のインターネットでは無料で見れる漫画サイトがないため、
中学生は小遣いをやりくりして書店やコンビ二などで漫画を購入する。
日本の出版社と作者が印税の契約を結ぶ際には、
通常現在手がけている出版物の件に限られる。
新しい作品を出版する際には、
再び作者と新しい契約を結ぶ。
例えば、漫画作品から派生した関連商品に対して、
出版社は売り上げの4-5%の印税を作者に払う。
また、アニメ化された一話分の印税は1000万円以上にも上る。
電子書籍の漫画がダウンロードされた場合も印税が支払われる。
日本の売れっ子漫画作家の年収は10億円以上に上る。
日本最高の発行部数記録をつくった「ワンピース」の漫画家・尾田栄一郎氏の
2010年度の年収は250億円にも達している。
漫画の創作によって生み出される経済の収益は
保障されており、作者は精力を傾けてより良い作品作りに励んでいくことになる。
日本の漫画が世界を魅了するのは、日本伝統の文化的要素を掘り起こしてきたことに
由来するところが大きい。
日本の「ドラえもん」にしても、米国の「ウォークラフト」にしても、世界を魅了した文化産業製品の中には、一つとして外国人の好みに合わせて創作されたものはない。
「民族的なものこそ、世界的なもの」という魯迅の言葉は、今もなお現実を映し出している。
▲補足、感想など
う~ん。
これなどどうだ。
-- 日本の漫画が世界を魅了するのは、日本伝統の文化的要素を掘り起こしてきたことに
由来するところが大きい—と。
また、曰く—世界を魅了した文化産業製品の中には、一つとして外国人の好みに合わせて創作されたものはない。--と。
マンガについて、このブログでなんどもふれた。
宮崎さんが、自分のアニメの顧客について、「外国の人が自分のアニメを見てくれることは嬉しいことだが、自分がアニメを作成するとき、顧客として想定しているのは日本人だけなのだ」--と。
また、筆者はマンガ、アニメの作成には、背景として巨大な混沌が必要だ。混沌とは、文化、歴史、闘争、破壊、愛情、恨み、戦争、欲望などなどが無秩序に入り混じった状態を指す--と。
どうだろう。
上掲の記事から転記した部分と、宮崎さんの言葉、筆者のいう混沌など、そこになにか通底したものを感じないだろうか。
面白いマンガ、アニメをつくるためには、そんなものが必要なのだ—と気がついただけでも大いなる進歩だと思える。
中国人は、先の文化大革命で、由緒あるもの、文化財などを殆ど破壊し尽くした。
それ以来、やっと約40年くらいを経過したところかな。
中国人なりの混沌を作ろうにも、殆ど蓄積もない状況だ。
そういえば、中国人が「宮崎さんに匹敵する才能の出現」を待っているのだ—とか、随分前に読んだな。
文化の蓄積もなしに、宮崎さんの才能だけが出現するということはない。
車の両輪のようなものだからだ。
まぁ、一つ、中国人は山を超えたかな—という筆者なりの感想だ。