▲ホウと思った。
中国人が割りと正直なことを言っているぞ。
そう。
中国人には、科学・技術に対する畏怖・畏敬の念がない。
これこそが、中国人にノーベル賞の受賞者が出てこない(あぁ、数人でたか--)—根源的な理由だ。
逆にいえば、これこそが日本人が中国人をみて、まぁ、恐るるに足らぬ—と考える理由でもあるのだ。
以下、新聞から抜粋。
「宝の持ち腐れ」という言葉がある。
素晴らしい物を持っていても、それを使わないことを指すが、中国社会における伝統技術やその継承者が置かれている状況を表すのにピッタリな言葉かもしれない。
中国メディア今日頭条は、「中国の『匠』が存在感がないのはなぜか」と記事を掲載。
「認めたくない事実」として中国に存在する「匠」と称される技術者が「存在感の低い人たち」になっていると説明。
メディアは数年、「匠」のドキュメンタリー番組を放送するようになっているが、社会では依然としてその精神を崇拝するムードが起きていない。
欧米諸国では熟練の技術を持つ人がリスペクトされ、彼らは良い収入や社会的地位を獲得しつつ、製品が自らの手で高められていく快感を享受していると紹介。
このムードがある故に、珠玉の作品が生み出され、100年以上の歴史ある企業が誕生すると論じる。
また、中学校を卒業して技術を学ぶことに対して、中国では「成績の悪いやつが生きていくための道」と軽く見られるのに対し、スイスはより多くの人が時計製造の道を進もうとすると説明。
そこに「匠」をリスペクトする姿勢があり、学校も子どもたちを早い段階で実技を身に着けるよう指導するのであるとした。そして、師匠のもとでの数年間に及ぶ修行を経て、高級腕時計の製造技術に従事する。
記事は「われわれに不足しているのは『匠の精神』ではない。『匠の精神』に対する評価、そして『匠』に対するリスペクトが足りない」と。
優れた技術を持っていても、社会がその価値を認めなければまさに「宝の持ち腐れ」になる。
市民からのリスペクトは必要だが、「素晴らしい」といった口先だけの尊敬では彼らは生きていくことができない。
彼らのモチベーションを高めるためには、技術に見合うだけの経済的な保障を与え、自らの技術を高めることに専念できる環境を作らなければならない。
▲補足、感想など
なんだろうなぁ。
記事を読みながら思った。
結局、中国人って、千年以上の歴史において「科挙」に合格するということ以外に生きる目的とか----価値を感じるものはなかったのか。
千年以上にも及ぶ科挙制度の実施された社会では、肉体労働—例えば、職人とか技術者、軍人などの技術職を「あの頭の悪いヤツ」という目でしか見れないということか。<1960年代半ばから10年間も続いて文化大革命で4000万人以上の技術者・文化人などが殺害された理由の一つとして、こういう肉体労働者への蔑視のような感覚があったのだろうな>
なるほどなぁ。
これなら、匠がどうたらなんてなんの関係もないなぁ。
冒頭でふれた。
中国人の科学・技術への畏怖の念がない—という現象の背後にあるものはそれなのか。
千年以上にも及ぶ科挙制度の実施された社会では、出世のルートというものは、科挙に合格するという一点だけなのか。
それ以外は、なんの価値のない社会ということなのか。
美味しい料理を作る技術も、曜変天目茶碗をつくる技術も、「科挙に合格」するということに比較すれば、とるに足らないことなのか。
なにか、中国人の精神の「核心」にふれた感じがする。
逆にいえば、中国人って、価値を認めるものが特別小さい領域しか認めない社会だということなのだな。
なるほど、これなら、中国の地方地方に民謡など生まれてくる筈もないな。
秋の収穫を祝うお祭りのようなものもないのだろう。
いや、筆者は、中国に民謡がないこと・お祭りがないことなどが、北からの騎馬民族によって農耕民族が蹂躙されるという事を繰り返した結果だと想像していた。
冒頭でふれた。
いや、これなら、日本人はまだまだ、当分、安心しておられるな。
中国人が、日本人の競争相手として登場するのまだまだ遠い未来だろう。