▲戦後、日本が歩んできた軌跡と、中国が改革開放政策以後に歩んできた軌跡とはまったく異なる。
1970年代というのは、筆者が社会に出た時だ。
以後は、実体験している。
日本人が、戦後、日本の歩んできた道をいくつかに区分するというのは、まぁ、間違いではない。
しかし、中国の場合、社会主義国家であり基本、計画経済ではないか。
また、親方が共産党という融通のきかない組織だ。
それをパラレルに語れるものか。
並行的に語ることで、中国人をミスリードしているようだな。
以下、新聞から抜粋。
1年前、ドラマ「下町ロケット」が放送、中小企業の奮闘ぶりを描いたストーリーで人気となった。
かつての経済成長を支えた中小企業は、問題を抱えながらも今も確かに日本経済の屋台骨となっている。
その足跡に、中国の経済界からも注目が集まる。
中国メディアは、日本企業がどのように成長し、どう発展してきたか、日本の専門家による解説を紹介。
記事は、教授で中小企業専門家である黒瀬氏にインタビューを行い、その中で同氏が中小企業の発展には大きく分けて3つの段階があると説明。
まず、第1段階は1945-55年であり、戦争による傷から立ち直るべく、中小企業は低廉なローエンド製品の生産を主体としていた。
続く55年から73年を第2段階とし、GDP成長率が10%を上回る高度成長期において日本経済にピラミッド型構造が完成、大手企業の急成長に伴い、部品を下請けする中小企業も大量の注文を獲得し、技術や経験を蓄積させていった。
第3段階は74年から89年であるとし、GDPの成長が鈍化するなかで、前段階で研究開発やイノベーション能力に注目し始めていた中小企業は、「量から質への飛躍」を実現した。
そこには大企業が下請け企業に提案力や設計力、高品質製品の生産管理能力を求めるなど、大企業による中小企業の育成という要素もあった。
第2段階と第3段階の境目となった74年が「日本の中小企業の発展にとってターニングポイントになった」とし、同氏が「今の中国と似ている。局面が変化する中で、どんな奇跡も起こりうる」との見方を示したと伝えた。
「世界の工場」という称号からの脱却を始めた中国の製造業。
単に「作る」ことだけではなく、「考える」、「新しいものを生み出す」ことが求められている。
中国に数多存在する企業がこぞって「量から質への飛躍」を実現できるようになれば、中国経済は真の安定成長へと突き進むことになる。
▲補足、感想など
記事で日本人がしゃべったとかいうことを鵜呑みにするなよ。おべんちゃらに決まっているだろうが---。
資本主義の下での発展過程と、計画経済の下での過程は異なるのが当たり前ではないか。
第一、今でも中国の記事とか、中国人の言い方には、「感情が絡みつく」。
まず、感情を絡めるなよ。
それだけで合理性、科学性が失われる。
そうだな。
日本の戦後とは、ホンダなんかが生まれた時代なのだぞ。
二輪の工場なんて、昭和20年代には浜松市内では雨後の竹の子状態だったようだ。
それが、次々と淘汰されて、ホンダが辛うじて残ったのだ。
以後、ビデオとか、電卓とか、ウォークマンなんかが誕生してきた。
どれもこれも、資本主義の厳しい競争社会の中で生まれたものだ。
翻って中国はどうなんだ?
計画経済の下、おんぶにだっこで、技術は他国からのパクリではないか。
えっ、それが、今の中国の状況が、日本の1974年の状況に類似しているだって----。
なんとかいう、日本の大学教授の「おべんちゃら」「とりあえず、褒めときゃいいだろう」という話し方に決まっているではないか。
そんなおべんちゃらをまともに受けて信じるなよ。
中国の経済の行き詰まりは、結局、計画経済という「やり方」の行き詰まりだ。
社会主義的資本主義という「ぬえ」のようなものが、計画経済そのものであったということでしかない。
もう、社会主義・計画経済がうまく機能しないということだ。
資本主義に切り替えてしまうしかあるまい。
完全な資本主義に切り替えれば、赤字となるとボンボン企業が倒産していく。
暴動も頻発するだろう。
共産党独裁というシステム自体が、破綻してしまうだろう。
このあたり、1990年代始め頃の ソ連 → ロシア へと切り替わっていく過程を再現することになるだろうな。