▲あの小野田さんの伝記がブラジルで刊行される。
まず、新聞から抜粋。
太平洋戦争終結を信じず、フィリピン・ルバング島に30年近く潜伏し闘い続けた伝説の日本兵小野田寛郎さん(1922―2014年)の伝記『Sem
Rendição minha guerra
de trinta anos(降伏せず 三十年戦争)』(小野田寛郎著、ジェラルド・アウヴェス・ポルチーニョ・ジュニオール訳)の
刊行発表会が、サンパウロ市にあるブラジル陸軍南東司令部で行われた。
小野田氏らの
親族や軍関係者、日系団体関係者ら40人近くが集まり、刊行を祝した。
小野田さんは、1942年に和歌山歩兵隊第61連隊に入隊し、情報員として44年にフィリピンに
派遣され、ルバング島に潜伏。
帰国した日本兵の証言から存在が発覚するも、祖国不滅を信じて
遊撃戦を30年近くに渡り展開し、74年に元上官の任務解除命令を受けて帰還。
翌年には親族を頼りにブラジルへ移住し、マット・グロッソ州で牧場を営んでいた。
本書の刊行は、松田ルイ・ユタカ陸軍少将が、小野田氏の又甥(甥の息子)にあたるエドアルド
陸軍少尉と出会ったのを機に、「尊敬する小野田氏の生き方を知ることは、ブラジル軍人にとって
良い刺激になる」と後押しし、陸軍図書館から出版することになった。
第2次大戦中の枢軸国側
軍人に敬意を表し、伝記がブラジル軍部から出版されるのは異例なことだ。
式典にはマウロ・セザール・ロウレナ・シジ陸軍大将、又甥のエドアルド少尉、リベロ・オノダ・
ルイス空軍少佐ら軍関係者のほか、森田聡在サンパウロ領事、コーディネーターの平崎靖之氏らが
出席した。
挨拶に立ったマウロ大将は「日系社会は大変な活躍ぶり。素晴らしいと尊敬している」とした上で、
「例え困難な状況に置かれても屈服せず、犠牲を払い、忠実に任務遂行をする姿は陸軍軍人に
とっても大いに刺激になる」と刊行を喜んだ。
軍楽隊による優美な音色が響き渡るなか、エドアルド少尉が一冊一冊にサインし、招待客一人
一人と握手を交わした。
和やかな雰囲気で式典が終わると、ブラジル独立を描いた巨大な絵画を前に記念撮影し、昼食会で参加者らは懇親を深めた。
本紙取材に対して甥の小野田昌郎さん(75、和歌山)は、「かつて敵国だった日本国軍人に、
敬意を表して軍部から出版されたことは大変光栄。移民たちが苦労を重ねてブラジルに貢献し
溶け込んできたからこそでは」と感慨ひとしおといった様子で語った。
息子のエドアルド少尉も「親族に軍人が多く、国を護る軍に対する敬意を抱いていた」
と入隊を振り返り、「今後も与えられた任務を忠実に遂行していきたい」と亡き寛郎さんを彷彿と
させるコメントをのべた。
▲補足、感想など
記事には「太平洋戦争の終結を信じず」やら「神州不滅」とやらになっているが、そんなことではない。
小野田さんは、「約束した」人なのだ。
戦争の終結間際に、上官から残置諜報を命令されたから、その命令に「従い続けた人」なのだ。
小野田さんは、陸軍中野学校というエリートの一員だ。
上官の命令は、天皇陛下の命令だ-と教育を受けた人なのだろう。
だから。
残置諜報活動をし続けて、いつの間にか戦争自体は終結したとしても、命令がある限り、自分で変更はできないのだ。
小野田さんは、口には出さなかったが、戦争が終わったことは充分に知っていたろう。
でも。
上官から「任務を解く」という命令がない以上、「戦い続ける」しかなかった。
で。
--74年に元上官の任務解除命令を受けて帰還--なのだ。
当時、マルコス大統領が「貴官は戦い続けてきたのだ」とルバング島での事件を不問にふして、小野田さんの日本帰還を許容した。<フィリピンのマルコス大統領は、小野田さんの立場を正確に理解していた。このあたり、上の記事にあるごとく、日本の新聞記者達は、まるっきり理解していない>
どういうことかというと。
小野田さんの元上官は、小野田さんに命令する時、終戦ということが分かったら、自分で判断して戦闘行為を止めるだろうと甘く考えていたということだ。
ところが。
小野田さんのような陸軍のエリートは、上官の命令は天皇陛下の命令だと同じだと考えていて、戦争が終わったなんて関係ない、「命令に従うのみ」と、ただただ約束を守り続けた人だということだ。
これが愚かだと言うのか。
命令を・約束を守り続けた小野田さんが愚鈍だというのか。
日本に帰還した時の小野田さんの写真を見てみよ。
直前まで戦い続けてきた「戦闘員」そのままの姿だ。
そのことにブラジルの軍隊が小野田さんを称揚する理由があるのであろう。
---例え困難な状況に置かれても屈服せず、犠牲を払い、忠実に任務遂行をする姿は陸軍軍人に
とっても大いに刺激になる--
小野田さんという人は、日本人のもつ忠義とかの模範的な例なのだろう。
その価値を認めてあげるべき。