2016年5月19日木曜日

なぜ、リベラルアーツは必要なのか

リベラルアーツ—か。
 まぁ、教養というものだろう。
 生きて働いて、通常に暮らしていくための「常識」とでも言えば言いのかな。

 元々がヨーロッパの言葉であるから、それなりの定義のようなものがあるのだろうが--
 日本で使う場合は、上の述べたように「常識プラスアルファ」ぐらいに考えておけば、間違いではあるまい。

 ところで、と思う。
 戦後から2000年頃まで戦後レジームというものが機能していた期間、この教養(リベラルアーツ)では、エベンキ族の「洗脳工作」が見抜けなかったのは何故なのだろう。
 2000年から2010年のインターネットの日本全国への普及で「始めて」、エベンキ族の洗脳工作、世論誘導工作が、日本人全員の目の前に「曝された」ことになったのか。

 その部分に、日本人の教養の「浅さ」「狭さ」を感じてしまう。
 まぁ、新聞放送業界、義務教育を中心とする教育業界をエベンキ族工作員に牛耳られてしまったということが大きいのだが—それでもなぁと思う。

 筆者でも、2000年頃までの無能さを振り返ってみて恥ずかしいなと感じる。
 なぜ、気付かなかったのだろうか?

 以下、新聞から抜粋。

 近ごろ、「リベラルアーツ」という言葉を耳にする。 一般教養と解される。
 社会全体のグローバル化が進むなか、リベラルアーツ学部や国際教養学部などを設ける大学も増えている。
 もともと「リベラルアーツ」は、中世ヨーロッパの大学で学ぶ基本的な学問:文法、 修辞学、論理学、算術、幾何学、天文学、音楽の「自由七科」を意味した。

 70年代の大学には、入学後の2年間は一般教養課程が後半の2年間が専門課程だった。
 大学入学後は専門科目を学びたくて、一般教養科目はおざなりにしていた。
 その後、企業側から学生の「即戦力化」の要請などもあり、大学は専門教育に重点を移し、多くの大学から教養部が姿を消していった。

 池上彰著『おとなの教養~私たちはどこから来て、どこへ行くのか?』を読んだ。
 池上さんは、東京工業大学リベラルアーツセンター教授を務めており、『リベラルアーツの「リベラル(liberal)」は自由、「アーツ(arts)」は技術、学問、芸術を意味し、 リベラルアーツとは「人を自由にする学問」ということだ』と述べている。

 また、『教養を身につけていれば、人間は偏見から、あるいは束縛から逃れ、 自由な発想や思考を展開していくことができる』とし、現代社会の“教養”となる「現代自由七科」として、 宗教、宇宙、人類の旅路、人間と病気、経済学、歴史、日本と日本人を挙げている。

 そこには副題の『私たちはどこから来て、どこへ行くのか?』を解くヒントがあるように思える。
 特に、「歴史」や「宗教」の章を読むと、学んだ世界史はヨーロッパ中心で、キリスト教的歴史観に偏っていたよう思えてならない。

 現在、イスラム教、歴史を知らずして、世界の政治経済を理解することは不可能だろう。
 同書には『歴史とは常に勝者によって描かれてきた勝者の物語なのではないか』とも書かれ、複眼的な歴史観が重要だと感じた。
 若い学生にとって広い視野を涵養するリベラルアーツは重要だ、同時に私のような還暦を過ぎた世代にも同様のことが言える。

 何故なら、経験と知識を獲得してきた人間は、縛られ息苦しくなったり、人生の方向性を見失ったりしているからだ。
 おとなの教養を深めることが、自らのアイデンティティと立ち位置を明らかにし、自由に生きるための針路を示してくれる、 それが今日、リベラルアーツが注目される理由ではないか。

補足、感想など

 ふ~ん、この記事、浅いなぁと感じる。
 冒頭でふれた。
 なぜ、従前のリベラルアーツでは、戦後レジームという日本在住のエベンキ族工作員による洗脳工作に気付かされなかったのか---その答えになっていない。

 なぜ、日本全国津々浦々までのインターネットの普及があって、始めて、「戦後レジームの核心」に気付かされたのか。

 つまり、ちゃらちゃらしたリベラルアーツでは、「絶対的な情報量」が不足しているのだ。
 インターネットというインフラで供給されるだけの「情報量」で、始めて世の中で「通常に暮らしていく」ことが可能となる、正しい判断が可能となるということなのだな。

 リベラルアーツという言葉が、人間が通常に暮らしていくための「常識」という定義なら、記事でふれている位の量では不足だ。インターネットを含めて始めてリベラルアーツなのだ。

 もっと、幅広い知識を持たなくては、エベンキ族の工作員にだまされずに「通常に暮らして」生きていくことはできない。