▲稲作の歴史を知るということは、日本人・日本国の成り立ちを知ることでもある。
日本人は、稲作の技術を獲得することで 採集的生活 → お米を食べる生活へ切り替え、人口も増えた。(従来、稲作というものが、弥生時代と縄文時代を区分する指標であったのだが、稲作の伝搬が紀元前6世紀という説もあり、現在では指標としていないようだ)
稲作技術こそが、古代日本の豊かさを支え、多少なりとも余裕を与え、文化というものを花開かす原動力となったといっても過言ではあるまい。
イネのdna を精査することで、栽培種のジャポニカイネが、現在の中国・珠江<広州付近>の中流付近で出現したと突き止められたようだ。
まず、記事から抜粋。
国立遺伝学研究所(遺伝研)は、イネ栽培化の起源地および起源の系統について、イネのゲノム解析を行い、その起源地と栽培化のプロセスを明らかにした。
アジア各地から収集した野生イネ「O.rufipogon」446系統と栽培イネ「O.sativa」1083系統(japonica、indicaを含む)をゲノム解析し、ゲノム全長の構造変異のパターンを用いて、1529系統間の相互関係を明らかにした。
また、遺伝的変異のパターン解析から、ジャポニカイネとインディカイネでは55のゲノム領域で、栽培化による選択圧がかかっている事も確認し、これらの領域には、脱粒性、芒の有無、粒幅など栽培化にとって重要な形質を支配している遺伝子が存在していることが確認された。
これらの遺伝的指標を用いた系統進化の解析と、各系統の生育地の情報を比較した結果、栽培化は、はじめに中国の珠江中流領域で起こり、1つの野生イネ集団からジャポニカイネが生まれたことが判明。
その後、その集団に異なる野生系統が複数回交配し、インディカイネの系統が作り出されたと考えられるという。
研究チームでは、この結論と多くの系統の遺伝的多様性の情報は、今後の研究発展に重要な成果となるという。
なお、今回の研究で使われた野生イネの約350系統は、遺伝研が世界中から収集を進めてきた系統で、ナショナルバイオリソースプロジェクトで保存、公開している遺伝資源だという。
▲補足、感想など
核心は、イネは暖かい地方を経由して日本へ伝わったということだ。
恐らく 珠江 →揚子江周辺 → 黒潮 →西日本 というルートだということ。
それは、また、中国南部 →中国の北地方 →朝鮮半島 →日本という稲作の朝鮮半島経由の伝搬ルート仮説を完全に否定したということだ。
掲示板に書き込みがあった。面白く感じたのでご紹介したい。
--ここから—
「倭人は周の子孫を自称した。」という記録もあることから、長江文明の象徴でもある水耕稲作文化の揚子江一帯の呉人が紀元前5世紀頃、 呉王国滅亡とともに大挙して日本列島に漂着していたという説も有力になっている。
種籾を抱いて新天地を目指し船出する祖先を想像したら胸熱。
--ここまで--
紀元前5世紀、城郭が炎上し、今、まさに呉国が滅びようしている。
その混乱と喧騒の中、種籾(たねもみ)を大事に胸にかかえて船に乗り込む人々、倭国へ渡ろうと次々と帆を上げて出発する一団の船々。
う~ん、こういう文章にすると思わず涙ぐみそうになるなぁ。
いや、呉国だけではあるまい。
同じようなことが、何度も何度もあったのだろうな。
このようにして、中国南部あたりから日本の西日本へ稲作技術が伝わってきた。
それから約800年くらいで、日本の東北地方まで普及したという。
日本の鹿児島で北緯31度、仙台付近で北緯39度ぐらいか。
幸い、日本は温暖な地で、水にも恵まれ、稲作に適していた。安定した食料を確保することで、日本はどんどん豊かになっていった。
比べるに、イギリスも日本と同じ島嶼国家であるが、気温が低く、農産物に恵まれなかった。
そのことが、15-16世紀、大航海時代という世界規模での競争において海外へでようとする国民の「逼迫度」「必要度」の違いとして、顕在化したのではあるまいか。