▲京都大学の山中教授がノーベル賞を受賞された。
お祝いの言葉を述べさせて頂きたい。
筆者には、Ips細胞なるものが理解できた訳ではないが、人類の医療に新しい道ずじをつけた—ということは分かる。
偉大な業績だと思う。
以下、新聞から抜粋。
ノーベル生理学・医学賞の受賞が決まった京都大の 山中伸弥教授は、同大で記者会見し、 「日本という国に支えていただいて、日の丸の教えがなければ、 この素晴らしい受賞はなかったと心の底から思った。
まさに日本という国が受賞した賞だと感じている」と語った。
山中教授は、国や友人、家族らの支援あってこその受賞だったことを強調し、 「感想を一言で表現すると感謝という言葉しかない」と述べた。
▲補足、感想など
このブログで、映画「天地明察」の感想を書き込んだことがある。
その時と同じような思いがする。
日本という国は、遥かな昔から「知性主義」というものが伝統としてあるのだな。
知性主義というと言葉として硬いか---。
う~ん、8世紀の頃・奈良時代、遣唐使達が日本に帰国するというとき、なによりも唐の書物を欲しがり、唐からの下賜品まで売り払い、大量に買い込み船に積み込んだ—とか。
16世紀、戦国末期に、ポルトガルの宣教師が織田信長に地球儀をみせ、地球ば丸い—と説明したことに対し、織田信長は理屈に合う—とこれを理解した—とか。
つまり、新しい知識に触れることを喜び、これを吸収することを喜ぶ—とでも言えば、分かりやすいか。
また、優秀な人材をみつけて、これを育て、大きな仕事を任せようとする—そんな雰囲気。
こういうものをひっくるめて、「日本の知性主義」とでも言えばいいのだろうなぁ。
こんな伝統的な「知性主義」というものにのっかって、山中教授のようにノーベル賞受賞者が出現するということであろう。
そのあたりのことに言及されているのが、記事の山中教授の言葉であろう。
---日本という国に支えていただいて、日の丸の教えがなければ、 この素晴らしい受賞はなかったと心の底から思った。まさに日本という国が受賞した賞だと感じている----と。
比較するのもなんだが、日本と対極にあるのが、中国であり韓国であろう。
儒教は新規なものを嫌がり、自由な発想を奪っている。中国人においては、優秀な人材をみつけてこれを育て—などということは無理だろう。
また、中国語・韓国語は、日本語に比較すれば、いずれも、複雑な・抽象的な概念を伝えることが難しい「欠陥言語」だ。
これほどのハンデを負っても、なおノーベル賞受賞者が出現することを国内では期待しているらしい。
それこそ、木に登って魚を求める類の話ではある。
いや、話がどこかにいった。
もう一度、大事なことを繰り返したい。
映画、天地明察では「安井算哲」という稀有な才能をもった若者を、周囲の様々な人たちが助け、保護し、「大和暦」という国内最初の暦をつくる話であった。
17世紀始めだ。
江戸幕府の体制がそれほど確立した時でもない。そんな時期でも日本人の知性主義というものは、確固として機能していた。
江戸幕府の体制がそれほど確立した時でもない。そんな時期でも日本人の知性主義というものは、確固として機能していた。
日本人は、この伝統的な知性主義というものを将来に向けて、伝えていこう。
その知性主義というものから、様々な日本人受賞者がでてくるのだ。