▲中国人の行動をみていて、通常人ではないな—と思うだろう。
特に日本人に対して。
奇妙なほどの「尊大さ」「強がり」の裏側に、日本人に対する根深い劣等感と恨みのようなものが垣間みえる。
どうやら、その根源にあるものは、「日清戦争の敗北」らしい。
一昨年かな。gdpで日本を追い越したとかいうニュースを聞いての中国人の「喜びかた」には、この「劣等感」から少しは抜け出せた—という感覚があるのだろう。
以下、新聞から抜粋。
中国政府は自衛艦への射撃用レーダー照射は「日本の捏造」といい、北京市の大気汚染は「日本の石炭火力発電が中国の環境を汚している」と言う。
ロックオンについては米政府もあえて「レーダー照射があったことは確信している」とコメントを発表。
いったいこの強弁はどこから来ているのか。
歴史を遡ったところ日清戦争まで行き着いた。
射撃用レーダーの照射についえ、中国報道官は「われわれも報道で知りました」と戸惑っていたが、
2日後に一転して「日本の情報は捏造である。
中国のイメージをおとしめようとし、
中国の脅威を誇張し、緊張関係を作り出し国際世論を間違った方向に誘導しようとしている」と批判。
北京市の空を覆う大気汚染については「日本は原子力発電をやめて石炭による発電に変えた。これが中国の環境に影響を与えている」と主張。
中国はなぜ謝らないのか。
対外的に謝罪したのは、120年ほど前の日清戦争が終結した下関条約(1895年4月17日締結)に遡るという。
このとき、賠償金と遼東半島、台湾などを日本に割譲し謝罪した。
これをきっかけに、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどの欧州列強に次々侵略され、西太后が領土を割譲していった屈辱が残り、家庭ではこのときの歴史を教訓として、「大事なことは譲ったり引いてはいけない」と教えているという。
北京の日本大使館で公使の経験のあるmは次のように指摘する。
「強烈な劣等感、屈辱から恨みを晴らそうという気持ちがあると思う。中国には公衆の面前で罵倒しない、相手の面子は守るというルールがある。
レーダー照射について、日本の対応は正しいが、中国からすると面子を潰された面があり、頑なになっている」
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「日本は対中関係をうまく築いていくのは難しいですかね」
m「日本に安易に謝ると弱腰と国内で非難される微妙な関係で、物事を解決することが難しくなっています。
120年前からの屈辱のトラウマが克服されないと、こういう問題は続く」
中国人はどうすれば克服できると思っているのかわからないが、きな臭いいやな予感がしてくる。
▲補足、感想など
記事にあるように、中国人には日本人に対して「根深い劣等感」があるのだろうな。
1980年代末からの江沢民氏の「反日政策」も、江沢民氏自身が「対日協力者の息子」というトラウマを抱えていて、上でふれた民族全体でもつ「劣等感」とあいまって、発動し、中国国内で受け入れられたものだろう。
要するに、中国人は、いまだに、日本人との「距離のとりかた」が分からないのだ。
それは、まぁ、日本人も同じであるが、ただ、日本人は中国人に対して胡散臭いヤツだと思っているが、別に優越感を感じているわけではない。
中国人には上でふれた日本人への根深い劣等感と、メンツというややこしいものがある。
それが、一層、中国人の行動というか、対日本・対日本人への言動を複雑怪奇なものにしているということだろうなぁ。
中国人のメンツをいうものの説明した文があった。ご紹介したい。
--ここから--
中国人の行動原理の基本は、「面子(メンツ)」である。
「面子」は、中国人にとって、自己の全人格、価値を表すものである。
「面子を潰される」ということは、自己の人格が全否定されることを意味する。
したがって、どんな屁理屈をこねてでも、それこそ絶対に自分の誤りを認めない。
問題は、この「面子」が、えらく浅薄で、皮相的、外面的なものだということである。
「面子」は、他人から見えなくては意味がない。
人間の内面的価値なんか、中国人にとって全く意味がない。
だから、外面ばっかりで、アホみたいに見栄を張り、意味なく威張る。
早い話、猿や犬がみせる、縄張りを守るための「示威ディスプレイ」と同じである。
したがって、より高度な人間の行動原理である、基本的人権、法の下の平等、言論の自由等なんか、猿や犬と同様、中国人には全く理解できない。
こういう猿・犬と同じ程度の原始・未開の頭脳しか持たない中国人を、いかに制御、善導するかということが、国際社会に課せられた課題である。
--ここまで--
どうだろうか。
中国人という民族とは、こういう民族だとしかいいようがない。
日本の隣にこういう民族(根深い劣等感をもっていて、メンツを潰されることをいやがる)がいるのだと認識しよう。
どうしても付き合いたいという人々ではないことは確かだ。