▲う~ん、言わんとすることは分からない訳ではないが、なにかちょっと軽率な発言だという気がするな。
まぁ、宮崎さんは、「生涯一アニメーター」たらんとしているということだ。
ビジネスがどうたらは、一切鈴木プロジューサーに任せているということだろう。
先日、公開された「風立ちぬ」は、やはり、宮崎さんでなければ表現できないものであろうと感じた。
宮崎さんならばこその「表現」であり、「深さ」だと思えた。
興行収入が100億円を越すだろう—と新聞では予測されていたが、筆者は当然100億円を越えるものと信ずるし、それだけの価値にあるものと感じた。
まず、宮崎さんの発言を以下で抜粋してみよう。
宮﨑
駿監督が、過去50年間の本人の作業について振り返った。
宮﨑監督は、「アニメーションは美しい夢だと思う」と話し、「アニメイターになって50年が過ぎた。
私にとってアニメーションは夢なのに、今は夢ではないビジネスの手段になる場合が多い」とし、「大部分のアニメーションがなくても良いのではないかと思える」と率直に考えを明らかにした。
続けて「創造の時間を10年と表現したのは、私の創造的な時間が既に終わったと思うからだ」と告白し視線を集めた。
監督は、「20~30代が私の創造的な時間だった」「この世界の秘密が何なのか分かったような気分になった瞬間、既に創造的な時間は終わったと思う」と語った。
監督は、「写真やレンズではなく目で、神経で、直接何を見て頭の中に記憶して絵を描いてこそ大きな絵を描くことができるようだ」「人々の感覚が便利になったことでどんどん劣悪になるようだ。若いスタッフたちを見てそれをしばしば感じる」と打ち明けた。
▲補足、感想など
何事でもそうだが。
最後の決め手は、「頭の良さ」なのだろう。
頭の良さ—という言葉では誤解を生むかもしれないが。
才能というものを含めた「頭脳」なのだ。
逆にいえば、頭の悪いものは、一流にはなれない。
大衆の胸をうつ作品はできない。
その意味で、宮崎さんは他のアニメーターから頭一つ抜け出て賢いのだ。
しかし、宮崎さんの基準で他者を見たとき、不足を感ずるのは当たり前だ。
そのあたり、宮崎さんに匹敵する「才能」がでてくるまでは致し方あるまいな。
また、傑作を生むためには、多くの駄作が必要だ。
ある日、傑作がポツンとでてくるのではない。
それこそ、有象無象の駄作・凡作が山ほどでてきて、その中にたまたま「傑作」が発見されるのだ。
そう考えると、沢山の凡作アニメーションがあってこそ、傑出した作品が生まれるということだ。
そのあたり、宮崎さんは敢えてカンチガイのふりをしているとしか思えない。
宮崎さんの「夢」と「ビジネス」とのバランスの話だが、これは「アニメ」というものを生み出し続けるための両輪であろう。
ジブリの場合、宮崎さんが「夢をおっかけ」、鈴木さんが「ビジネスをおっかけ」という形で「分業体制」であろう。分業だからこそ、ジブリという会社がなりたっているのだ。
ざっと、宮崎さんのコメントを振り返ってみた。
これは。
宮崎さんは、「生涯一アニメーター」を貫き通すという意味だろう。
センスの輝く10年—という話題があったが、宮崎さんの場合はもう「生涯をかけて背負った業」というものではあるまいか。