▲今、イスラム教があぶなくない—とかのPRが盛んになされる。
そりゃ、教義に「人を殺せ」とか書いてあるまい。
そこにリスクがあるのではあるまい。
イスラム教がもつ底知れぬ「非融和性、非寛容さ」にリスクの核心があるのだ。
以下、新聞から抜粋。
イスラム教を巡るニュースが相次ぎ、日本人のイスラム観が揺さぶられる。
一方で、ビザの発給要件緩和などでイスラム圏からの訪日客が急増、日本人がムスリムを身近に見聞きする機会も多い。
共に暮らしていくためのヒントを聞いた。
◆暴力的な教え一切ない
イスラム教に改宗したのは27歳の時。
その後、ドバイやパリで暮らし、2013年に帰国。
日本で電車やバスに乗る時は、ヒジャブを横で結んだりしてかぶっている。
すれ違う人からにらまれることもある。
そういう人は「ムスリム=テロリスト」というイメージを持っているのだろう。
でも。この布きれ一枚があなたに何をするんだって。
私は、ムスリムへの偏見があった。情報だけで「怖いことをする危険な人たち」と思っていた。
でも、イスラム圏の国に行ったら優しい人ばかり。
イスラムという言葉は、アラビア語で「平安」を意味する「サラーム」から派生したとされる。
平和が根底にある教えで、暴力的な要素はない。
私には5歳と4歳、1歳の子どもがいる。
この子たちが大きくなるころ、国内のムスリム人口は増えているだろう。
ムスリムと非ムスリムが共存できる社会をつくるため、親としてすべきことは何か。
一つは教育関係者や保護者向けのセミナーの開催が挙げられる。
お祈りや、イスラム法で許されるハラールの食事などイスラム教について周囲に正しく理解してもらうことが必要だ。
ムスリムの友人の中には、忙しく働きながら小学校のPTA役員をしている女性もいる。
地域で暮らすムスリムとして、その存在を示すことは子どもたちを守ることにもつながると考えているからだ。
交流の場をつくることも大切。
数年、礼拝所は増えたが、大阪の南部にはモスクがなく、コミュニティーが発展しにくい。
市内にモスクができれば、情報交換しやすいし、子どもたちにコーランの授業もできる。
その際、屋根瓦と畳のあるモスクが作れたらいいのでは。
日本のムスリムが増えれば、日本なりの信仰の形が自然と生まれてくる。
私はこの国ならではのムスリムのアイデンティティーも大事にしたい。
「日本ハラール協会」は非営利法人で、ハラール認証やその支援を行っている。
輸出を主な目的に認証をとる国内企業は増え、インバウンド効果で日本でも食のハラール化は進む。
私も、家族で焼き肉を食べて幸せだった。一方で認証団体の中にはハラールブームに便乗し、法外な費用を要求する詐欺まがいの集団もある。
地道な認証活動も私たち世代の責任で、ムスリムとしての使命といえる。
ハラール食材が増えればハラールレストランが増え、将来的には給食もハラール化されるかもしれない。
10年後、20年後に子どもたちの世代が何不自由なく生活できる社会になればと願っている。
◆日本なりの共存模索を ウスビ サコ・京都精華大人文学部長
マリの高校を卒業し、中国に留学。
中国にはムスリムの民族がいるため、イスラム教について基本的なことは知っていた。
24歳で来日。日本人の多くは「私は無宗教です」と言うが、「相手を尊重する」「モノを盗まない」など、自然に身体化しているように思う。
それなのに、私たちムスリムの宗教的なタブーを理解しようとしない。私に酒を勧めたり、みりんや豚肉など口にしてはいけないものについていちいち「なんで?」と言ったり。
ムスリムは、他の宗教に対してある程度の知識を持ち、互いに尊重したり距離を置いたりしながら共生してきたが、日本人は他の宗教や異文化に関する情報と知識が極めて少ない。
もう一つ、日本人に特徴的なのは、相手を型にはめようとするところだ。
近年イスラム教に関する情報がもたらされると、「ムスリムはこんな人、対応の仕方はこう」と決めつけ、それに沿わなければがっかりする。
でも、イスラム教は広範な地域に広がっていて、いろんな文化がある。
例えば女性のヒジャブ着用を徹底している地域もあれば、そうでない地域もある。
中途半端に知識がある人は、そうした多様性すら認めようとしない。
最近はみんな、自分の身を守るためにイスラム教を知ろうとしている。
それがコミュニケーションを阻害している。
先日、ある小学校から「イスラム教について教えてほしい」と頼まれた。
ムスリムの転入生を迎えるにあたり、「その子に対して宗教的に間違ったことをすると大問題になるのか」「豚肉を食べさせたらどうなるの」などと。
私も来日した当初、豚肉を何度も食べたが、だからといって一緒にいた人を憎んだりしない。
目の前の人から学び、直していけばいい話だ。
西欧社会はムスリムへの差別意識を隠さない。
歴史的に領土争いを繰り返してきたので、排他的だ。
相手の危険性や自分の利益・不利益を知った上で関わるから、差別が生まれやすい。
日本は経験がりないので、ムスリムと協調していける可能性があると思う。
私は日本国籍を持ち、ムスリムでもある。
このように複数のアイデンティティーを持つ人たちが、これからの多様性がある「日本人」や日本社会を構成していく。
多民族化が始まりつつある今がチャンスだ。
西欧化するのではなく、日本なりの共存の方法があるのではないか。
日本社会は本来、他者を受け入れる姿勢を持っている。外国人が日本の文化を学ぶことを否定しない。例えば地域の祭りなどを通して関係性ができれば、お互いを知ろうと思うようになる。
以前、町内会長に「お酒飲まへんか」と言われて「飲まない」と答えたら「こんな体して、なんで」「イスラム教徒だから」「おーそうか」。
そんなふうに互いに調整していけばいい。
宗教も含め、「違ったまま一緒に暮らす」方法を模索することが重要だ。
◆家族や友人関係が濃密 中西久枝・同志社大教授
1980年代末以降、イランなど中東の国に滞在した。
実際に行ってみると全然違うということが多くあった。
最近ではイスラム教とテロとを結びつけて報道されることが多く「怖い」という印象を持つ人が増えているが、それは一方的であり間違いだ。
表面的な知識だけでなく、私たちと異なる文化的な背景や考え方を持っていることを理解した上で付き合うことが重要だ。
彼らの特徴として、人間関係が濃密。特に家族をとても大事にする。
仕事中であっても、電話が掛かってくればためらわずに出る。
知り合いになった相手の家族のことも知ろうとする。
私がイランの外交官に安全保障政策を聞き取りに行った時も、まず最初に「兄弟はいるのか」「子どもはいるのか」と質問してきて、答えないと本論に入れなかった。
一番重要なアイデンティティーが「家庭」にあることがよくわかる。
中東のイスラム教徒が日本に対して持つ印象は概して良い。
その原因は、日本が中東地域を侵略していないこと、長崎に原爆を落とされながら立ち直ってきたことなど歴史的な面もあるが、若い世代ではアニメや映画を通じて日本に強い関心を抱いている。
レバノンで出会った女の子は日本のアニメファンで「数百作品という単位で見ている」と言っていた。
そうした映像作品が彼らの心に響くのは、日本人と似た「ウエット」な感性を持っているからだろう。 相手を思いやり、言いたいことをはっきりと言わない繊細さのようなものだ。
例えば「手土産」の文化。同志社大でも多くのイスラム教徒の留学生が学んでいるが、自国に帰省して日本に戻った時には私に何かしら手土産を持ってきてくれる。
この感覚は日本人にはなんとなく理解できるものだ。
人間関係の濃さや情の深さには、宗教的な背景が影響している。
彼らは、コーランの教えを実践することで信仰を神に示すという発想がある。
困った人を助けるのも当たり前だし、大切だと思う人を徹底して大切にすることも信仰の現れだ。
イスラム教徒の学生たちは、日本人は打ち解けるのに時間がかかる半面、寛大だと言っている。
ベール姿を見たり、質問をしたりすることが少ない。
私は、宗教意識の強くない日本人だからこそ、偏見なく彼らと接することができるのではないかと可能性を感じている。
◆日本に推定10万人
日本ムスリム協会によると、日本で暮らすムスリムは推定約10万人(うち日本人は約1万人)。
パリ同時多発テロ(昨年11月)や、日本人7人が殺害されたバングラデシュのテロ(先月)など、過激派組織「イスラム国」(IS)をはじめとするイスラム過激派による犯行が頻発。
イスラム教への関心が高まっている。
▲補足、感想など
イスラム教徒に対する日本人からの警戒心が高まっている—が本当のところだろう。
この人達、なにか、ユダヤ教徒と似ている。
基本的に、「郷に入っても郷に従わない人達」なのだ。
オレ様達のやり方をどこに行っても、徹底的に押し通す人達だということだ。
その非寛容さ、その非融和性で、世界から嫌がられる人と言ってもいいだろう。
今、日本で10万人か。
仮に、日本にムスリムが100万人も存在するようになったら、天皇陛下へ向かってイスラム教へ改宗しろ—とかいうデモをイスラム教徒が実践し始めるだろう。
皇居を「モスク」に建て替えろ—とかデモを起こし始めるだろう。
別にムスリムにとってそれは、悪意ではないのだろうな。
それが当然だと感じるのだろう。
つまり、「郷に入っても郷に従わない人達」と隣合わせに住む—とはこういうことだ。
だから。
イスラム教徒の数をこれ以上増やしてはならない。
日本という国が、完全におかしくなる。
完全に破壊されてしまう。