▲韓国人記者の記事があって、ちょいと面白いと感じた。
まず、記事からご紹介したい。少し長いので、筆者が適当に抜粋。
#1
日本の留学生活で体験したこと。
食堂でご飯を食べている時に、いきなり涙が出た。
ストレス性のじんましんが出た。
友人は「大丈夫?」と慰労の一言を言った。
笑い声をたてたりもしました。慰労に慌てた記者は、静かにご飯を食べた。
#2
日本人の友達Aさんと談笑。
ボーイフレンドの悪口を言うAさんに、「明日になったら『彼がいないと生きられない~』」って言うんじゃないの?」と言った。
別れた後、メッセージが到着。
「まだ親しい仲じゃない、礼儀をわきまえるべき」
親しい間柄だと思っていた記者は、混乱した。
#3
留学している韓国人と下宿生活をしていた。
夜遅くにワールドカップの試合を見て、私たちは声を上げた。
翌日、ポストに手紙が置かれた。
「この国は夜に礼儀を守ることを知っている国です。先進国の礼儀に従ってもらいたい。」
近所の人が書いたもののよう。
「直接、警告してほしい」という考えと、寂しさが。
韓国では「日本人は表面的である」という認識が広まる。
上記の例を見て、「表面的で正解じゃないか」と言うかもしれない。
本音と建前という言葉がある。
本音は本音、建前は表面に露出させる気持ちを意味します。
どの社会でも本音と建前があります。
日本が「本音」と「建前」が代表的な国として知られている理由は何か。
日本人はストレートに拒絶するのを「失礼」とする傾向がある。
相手に対する礼儀がないという認識からです。
だから相手と「親しくない」と思っていても、親切に接するのを美徳と考えています。
寮の友人に、「慰労を一言だけ言ってTVを見ていたのを驚いた」と。
彼らはびっくりした。
彼らは「そっとしておいたのに…」「苦しい相手に知ったかぶりの話をするのは失礼でしょう」と。
Aさんも同じ。
当時の話をすると、Aさんは「今は理解できる」と。
「1年以上親しくしてもわからないのが人間でしょ。あなたがいきなりふざけので当惑した」と説明。
なぜ直接言わなかったのかという質問に、「面と向かって言うのは失礼じゃない?」と反問。
Aさんが本音を話してくれるまで4年かかった。
「あなたと会った頃は、不快だった。心の中身をすべて打ち明けるのは、『失礼』になることがあります。あなたの悩みや悲しみや喜びを、私も同じように背負わなければならないような負担を私は感じていた。」
つまり、感情の「責任」を共に共有する可能性がある。恋人同士でさえ、会社生活の疲れを共有しないのが日本人だと。
別の日本人の友達のBさんは、「自分の会社の不満を私に話すのは失礼じゃない?なぜそんな否定的な気持ちを私と共有したいの?あなたは本当に未成熟だ!」と、ボーイフレンドと別れた。
日本での本音と建前は、結局は相手への「配慮」と「失礼」から始まった社会用語なのかもしれません。欠点もあります。
しかし日本の社会文化を考慮すると、日本人を無条件に「表面的」と言うのは困難。
記者の経験が一般的な経験ともいえません。
日本で10年間生活したパクさんは、経験談を聞いて、「正解だけど、そうでない友人にもたくさん会った」と。
▲補足、感想など
未成熟か?
筆者もそう思った。
本音と建前?
それも違うだろうなぁ。
核心はなんだろうな。
成熟した国家での「他者との距離の取り方」というものだろうな。
大体、文化の成熟した国家では、通常の人間は他者と1m~1.5mくらいの距離をとっているものだ。
韓国人は、他者とおそらく0.5mくらいの距離を取りたがるのだろうな。
そのくらいの距離でないと、「親しい」と感じないのだ。
ところが、日本人は、上で書いたように1.5mくらいが適当だと感じているから、「オレに近づきすぎる」--と感じて、離れようとするのだ。
記事で、4年かかってどうこう—と書いてあるが、それでもやっと1mくらいの距離になったに過ぎない。
つまり、どこまでいっても、韓国人にとって、日本人との間では、0.5mの距離にはならない。
それを韓国人からみると、日本人は表面的だという感想になるということだ。
これはなぁ。
韓国人の距離の取り方が、「未開国家」のやり方なのだ。
「先進国の礼儀」に従う—ということしかあるまいな。日本人との距離は、1.5mなのだ--と、それが普通なのだと考え直すしかあるまい。
やれ、表面的の、本音と建前だのと考えていると、どこまでも間違う。
アメリカへ行っても、イギリスへ行っても、成熟した国家での他者との距離は、1.5mなのだ。
そこを間違えるから、話がトンチンカンなものとなるのだ。