▲奇妙な表題となった。
いや、なにか本の評論らしいのだが、その結論らしきものが、表題のいいだ。
なんというかなぁ、こういう言い方をして面白いか?
こういう言い方をすれば、日本人が朝鮮人を尊敬するようになる--とでも思うのか?
そういえば、数世紀前の外国人からの朝鮮人の「評」がいくつかある。
それをご紹介しよう。
--ここから--
☆イザベラ・バード 「朝鮮奥地紀行」
「朝鮮人には猜疑、狡猾、嘘を言う癖などの東洋的な悪徳が見られ、
人間同士の信頼は薄い。女性は隔離され、ひどく劣悪な地位に置かれている。」
☆ヘンドリック・ハメル 「朝鮮幽囚記」
彼らは盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。
彼等をあまり信用してはなりません。
☆ノース・チャイナ・ヘラルド紙 1905年5月5日号
朝鮮ほど贈賄や腐敗がよく見られる国もないだろう。
また、この半島ほどなんの理由もなくだましたり、
だまされたりすることが広く行なわれている国もない。
☆アーソン・グレブスト
「悲劇の朝鮮」
その嘘っぽい理論で結論を下す論法ときたらまったく驚くべきほどです。
自分が正しい場合がほとんどないにもかかわらず悪びれる様子がほとんどない。
--ここまで--
数世紀前の朝鮮人評をみると、なにほどの変化もないことが分かる。
騙しだまされる、裏切りうらぎられる—不信国家、息をするようにウソを吐き出す民族--それが韓国であり、北朝鮮だ。
以下、新聞から抜粋。
頭まで奪われた民族~『植民地主義
再考―民族差別なくすため』が問うもの 佐々木有美
日本の植民地主義が何をしたか、今わたしたちは知らなければならない。
小林隆の新著『植民地主義再考-民族差別をなくすため』を読んで思った。
この本に、戦前の日本で幼少期を過ごした韓国人女性の回想が出てくる。
「“鮮人”。日本人は私たち朝鮮人をこう呼んだ。それは、頭のない民族だから、上の“朝”の字は取ってしまったと。
おお!
頭のない民族。日本人は、自分たちの手で朝鮮人の頭をふみにじり、揚げ句のはてに頭をとってしまった。この民族は、訴える所もなく、ただ悲しみに耐えて、奪われた頭のかわりに日本人の頭を被って生きていかねばならなかった。
植民地支配とは何か、彼女のことばが端的に語っている。その怒りと痛切さが、胸を突く。
2006年ごろから、ヘイトスピーチ・デモと呼ばれる現象が起こった。
街中で在日韓国・朝鮮人を侮辱し、脅迫しているのを見たときの驚きは忘れられない。
「良い朝鮮人も、悪い朝鮮人もどちらも殺せ」。それまでももちろん、在日差別はあったのだが、これほどのあからさまな表現は想像を絶した。
“鮮人”と呼んだ昔も今も、日本人は朝鮮人をずっと差別し続けている。
なぜ差別は続くのか。著者は、近代日本の歴史をたどる中からその原因を探る。
日清・日露戦争から始まる侵略と植民地獲得の歴史、その破綻としての敗戦。
しかし日本人は戦争責任も植民地支配の責任も置き去りにしたまま、何の反省もなく戦後を過ごしてきた。朝鮮戦争やベトナム戦争の特需で儲け、経済成長して、括弧つきの平和を享受した。
なんとムシの良い国民だろう。でもそのつけは、確実に日本にまわってきた。
第二次大戦で、日本が誰と戦ったのか、どこを植民地にしていたのかもあいまいな若い人たちが大勢いる。
「気に入らないなら自分の国に帰ればいい」ということばが出てくる背景には、歴史を知らないということがある。
朝鮮学校への無償化はずしや、日本軍慰安婦問題が少女像撤去とバーターで解決されるような理不尽が堂々とまかり通る原因も同じだ。
さらに深刻なのは、「嫌中・憎韓」などと呼ばれる風潮が、戦争を煽る大きな要因となることだ。
小林は書く。「彼らの感性では、在日朝鮮人・韓国人への仕打ちが、日本人のノドもとにも突き付けられている刃であることに気づくことはない。ファシズムは、他者や少数者への抑圧から始まる。だがそれはすべての民衆を支配するための序曲なのだ」。
差別が公然と行われる社会がどんなものか、なにより戦前の日本やドイツが実証している。
安倍政権の空気の中で行われた障害者殺人事件は、それを端的に示しているのではないか。
しかし、著者は、希望を失わない。「朝鮮にたいする差別も、近代日本の歴史から生じたものだから、歴史を学び、現実をかえようと努力すれば、時間がかかっても将来かならずなくなるのである」と。
本書には、関東大震災のときの朝鮮人大虐殺の歴史や、苦難の道を歩んだ朝鮮学校の歴史が紹介されている。また、韓国の戦後史にもふれ、分断国家がなぜ生まれたのかも詳説している。
どれも、歴史の真実を理解するのに欠かせない。
現状を変えるために、カウンターデモや在日韓国・朝鮮の人々との交流を続けることを小林は提案している。
最後にひとつ付け加えたい。それは、植民地主義の清算は、決して日本だけの問題ではないことだ。
フランスでは、旧植民地のアフリカ諸国からの移民で戦後の労働力不足を補った。しかし、彼らへの差別は温存され、その後の世代へと引き継がれた。
イスラム教徒の少女たちのスカーフ着用をめぐる論争や、昨年から続くテロ事件など、フランス社会を揺るがす矛盾は、植民地主義の清算がなされていなかったことの証左だとも思える。
▲補足、感想など
ふ~ん、なにか、うっとうしい文章ではある。
ただただ、日本人から、ああされた、こうされた—という、された・されたという「恨み」を書き連ねた文章だな。
じゃ、自分達はどうしたこうしたはないのか。
そこらじゅうに糞尿をばらまいた、朝鮮ヤクザが集団でおしかけた、子供を誘拐して脅した、反対者を闇討ちした、玄関ドアにツルハシを打ち込んだ---とか、自分達がしたことは言わないのか。
なにかの本の感想らしいが、その本の著者自身がいかにも日本人風の名前だが、evenki族の工作員であろう。
evenki族工作員の書いた本を、日本人風の名前のevenki族工作員が評してミスリード? しているということか。
念のいった仕掛けではある。
朝鮮人という言い方を 朝をとって「鮮人」としたら、頭をとったことになるのか。
ふ~ん、単なる省略であろう。
ジャプというのと大差あるまい。
2000年代半ばからの「嫌-韓国人」「嫌-在日韓国人」の現象は、日本の戦後レジームの崩壊から生まれたものだ。
戦後レジームとは、戦後すぐからはじまり、2000年頃まで続いた日本-韓国-米国が絡んだ「日本人弱体化計画体制」であった。
この戦後を代表する体制が、2000年頃-2010年頃までに全国に普及したインターネットにより、日本にいるevenki族工作員達によって、日本人が如何にだまされ、ミスリードされていたかが、日本人全員の目の前にさらされ、戦後レジームが崩壊したのだ。
これが差別か。
日本人が、戦後レジームの中で日本人の世論誘導・洗脳工作をしていたevenki族工作員を嫌うなんて、当たり前であろう。
これから、嫌-在日韓国人—という現象は激しさを増そう。
この現象は、差別なんてなんの関係もない話だ。