2017年8月1日火曜日

結婚するしないは、多様性を認める認めない—という話ではない

なにか、結婚を巡って「小賢しい理屈」が闊歩していることに、筆者は看過できない。
 こう軽い・小賢しい理屈を言って---と感じるのだ。

 まず、記事から抜粋。

 未婚率が上昇したことに伴い、職場においても男女とも未婚の独身者比率が高まっています。 
 そんな中、増えているのが独身者に対するハラスメントです。
 ハラスメントとは、「嫌がらせ」という意味で、「他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、 尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えること」。

 代表的なところでは、性的な発言や行動によるセクシャルハラスメント(セクハラ)、 職場で職務上の地位や優位性を背景に業務の範囲を超えた肉体的、精神的苦痛を与えるパワーハラスメント(パワハラ)、妊娠、出産、育児に関するマタニティハラスメント(マタハラ)などがあります。

■結婚しない男女を痛めつける「ソロハラ」の実態
 今回取り上げたいのは、結婚しない男女に対するソロハラスメント、略して「ソロハラ」です。
 もちろん、言葉だけが生まれてくる状況に対する批判もあるでしょう。
 しかし、ソロハラには、結婚する・しないの問題を超えて、 「ソロで生きる」という個人の生き方そのものを否定しかねない問題をはらんでいます。あえて「ソロハラ」という言葉を使用します。

 かつて、ソロハラの対象は、女性でした。それこそ高度経済成長期には、適齢期の女性社員に対して男性上司が「そろそろ結婚しないのか」 「彼氏いないのか」なんて声をかける風景は日常的なものでした。
 それでも未婚のままでいると、「なんで結婚しないの?」という追及的な質問に変わり、 果てには「結婚というものはいいもんだぞ~」「人というのは、結婚して、子どもを育ててこそ一人前なんだぞ」という飲みの席での説教に変わっていきます。

 そして、男性に対する同様の言動も存在します。
 昭和の時代であれば、「よく見られる光景」で済まされたかもしれませんが、いまや立派なハラスメントと認定されます。
 しかし、上司や先輩からの「イジリ」ネタ程度で処理されていないでしょうか。

 また、女性の場合は、同性の既婚者からのソロハラも多いようです。
 以下は、私が実施した独身女性に対する対面インタビュー調査で出た意見です。
 「既婚者の職場の先輩(女性)から、独身は自由でいいわよね~、時間もおカネも全部自分のために使えるし……と、嫌味っぽく言われます」(34歳女性)

 「結婚したいなんて一言も言ってないのに、先に結婚した同期から顔合わせるたびに説教されます。理想が高すぎだと。もう若くないんだから、自分のレベルをちゃんと見極めなさいって。本当にしつこいし、うざい」(30歳女性)
 厚生労働省の平成24年「職場のパワーハラスメントに関する実態調査」の報告書にも、こんな発言が紹介されていました。

 「いい年をして結婚もしていない、子どももいないから下の者に対して愛情のあるしかり方ができない、と言われた」(40代女性)
 ひどい理屈です。子どもがいれば愛情あるしかり方ができるのでしょうか? 
 そこに何の因果関係があるというんでしょうか? 同様の例は当然男性も受けているのですが、あまり表面化しません。

「未婚の市長とは議論できない」
 企業内においてだけではなく、議会でもこうした問題が発生しています。
 20146月東京都議会本会議において起きた、塩村文夏議員に対するソロハラヤジ騒動です。 塩村議員が妊娠や出産に悩む女性の支援策について質問していた際に、男性議員からの「結婚したほうがいいんじゃないか」などのやじが問題視された。

 もうひとつは、2016年に秋田県大館市議会で発生した、女性から男性に対するソロハラです。
 60代の既婚女性議員が、40代独身の福原淳嗣市長に対し「未婚の市長とは議論できない。結婚を」と発言した問題で、当該女性市議には戒告処分がなされました。
 しかし、この大館市のニュースは、前述塩村議員の件と比べて、それほど世間の注目度は高くありませんでした。それは、ソロハラされた相手が男性だったから、というのも否定できないと思います。

 セクハラでもそうですが、被害者が女性か男性かでメディアでの取り上げられ方には温度差があります。この大館市の件にしても、本音では「そんな目くじら立てることでもないだろ」と思った人たちが大勢います。戒告を受けたこの女性市議もこう弁明しています。
 「親心で子育ての重要性を訴えた。結婚は私的なことで、誤解を招く表現だったが、悪意はなく、戒告は納得いかない」

 男性もこうしたソロハラを受け、嫌な思いをしていた。女性と同様、男性に対するソロハラもケアしていかなくてはいけません。
 ただ、この女性市議の言い分の是非はともかく、彼女の言う「悪意はない」というのは本心でしょう。

 そして、この悪意のない「善意の結婚強要」こそが厄介なのです。
 こうした「善意の結婚強要」が蔓延するのは、日本が1980年代まではほぼ100%が結婚する皆婚社会だったことが関係しています。
 文字どおり、結婚することが当たり前な時代でした。結婚をしないという選択肢はなかったわけです。

 1987年の出生動向基本調査によると、男性側の結婚の利点としては「社会的信用」が22%。
 これは「精神的安らぎ」に次いで2位でした。
 男にとって結婚とは社会的信用を得ることだったわけです。

 逆にいえば、未婚男性には信用がなかったということです。
 現在は「結婚=社会的信用」という意識は大幅に減少していますが、皆婚時代に強く刷り込まれた「男は結婚してこそ一人前」という規範は心の奥底に根強く残っています。

 そういう意味では、結婚とはある種の宗教に近いものなのかもしれません。
 未婚者に対して、「結婚しなさい」と言いたがるのは、宗教における勧誘の「入信しなさい。救われますよ」と似ていると、そう感じるのは私だけでしょうか。
 結婚を薦めてくる既婚者たちは、結婚教の宣教師であり、勧誘者なんです。

 そもそも結婚しようがしまいが放っておけばいい話なのに、彼らはじっとしていられません。
 自分の信じることこそが絶対に正しく、それがわからない人は「かわいそうだ、救ってあげないといけない」と、そんな心理が働くんでしょう。
 大館の女性市議が「親心」だと言ってるのもまさにそれです。

 そうした善意のおせっかいが、悪いわけではありません。かつて、それは日本の婚姻システムを機能させていたものだからです。
 お見合い結婚比率が過半数を占めていた時代は、地域や職場にいる「おせっかいおばさん」が何組ものマッチングを実現させていました。だからこそ、皆婚が維持されていたわけです。

「結婚教」に入信しないと、途端に異分子扱い
 しかし、何度説得しても「結婚しない」、つまり「入信しない」ことがわかると、この勧誘者は途端にその人間を異分子扱いします。
 それは、いわば異教徒を敵視するのと同じです。そっとしておいてくれるどころか、「結婚しないあの人には何か問題がある」というレッテルを貼り、陰での偏見を助長し、あまつさえ攻撃するようになってしまうこともあります。
 これは、集団の中のハミダシ者を異分子扱いして、いじめの対象にする心理と変わりません。

 「多様性を認めよう」と言いながら、相変わらず標準性・統一性を強く求め、「結婚すべき」という自分たちの信じる価値観を、一方的に絶対的正義として押し付けてしまうこと。
 これが、表面上善意として行われていることに、ソロハラの本質的な脅威があります。

 言った側は「そんなつもりはなかった」と軽く考えてしまうでしょう。
 冗談で済ませようとするかもしれませんが、ソロハラされた側は、「結婚できない自分は何か欠落しているかも……」と、精神的に深い部分をえぐられているのです。これは未婚者の不幸度の高さとも無関係ではないはずです。

補足、感想など

 ふん、つまらん、小賢しい理屈だなぁ。
 種の保存という欲求というか、本能的な行動は、生き物にとって、生きる最大の目的だ。
 種を未来に向けて残そうとすることこそ、本能が指し示す根源的な欲求だ。

 鮭の雌は、生まれた川を遡り、産卵することでもう、一生が終わってしまう。
 あの激しい産卵までの「姿」こそ、狂おしく神々しいばかりの生物の真の姿だ。

 どうも、文明というものは、生物としての真の姿を、「小賢しい・軽率な」理屈で、覆い隠そうとしてしまうのだな。

 もっと、本質的なことに着目せよ。
 結婚も「種の保存」という生物の根源的な欲求の「一部」なのだ。

 そりゃ、結婚しない—という選択も、個人としてはありかもしれない。
 しかし、それを言うなら「恥ずかしそう」に言えよ—と思う。
 生き物としての本能から、外れているからだ。

 なんだって。ソロハラ?
 ふん、大きな顔をして、大声で言うようなことか。
 種の保存という生き物の「本能」から、外れるということは不自然だし、不合理なことだ。
 そんな不合理なことを、大声で言う方がおかしかろう。