2016年6月24日金曜日

中国のアニメ産業が日本を追い越す日がくるのか

う~ん、と思う。
 天才がでてきたら---可能だろうな。

 でも。
 中国に日本の手塚治虫さん、宮崎駿さんに比肩するだけの「天才」が出現するかな。
 そもそも天才というものの後ろにあるものが理解できるか。
 それこそ、おそろしく巨大な「混沌」が背後に存在している。

 政治、経済、歴史、闘争、戦争、科学、技術、本能、エロなどのなんとも言えないほどの混沌が存在している。
 そういうものをもっていなければ、「天才」として周囲から見られない、認識されない。

 中国の教育方法を見ていると、単なる「雑技団方式」で、ある「一つの特技」をいかに伸ばすか式の教育でしかない。
 こういう偏った教育から、巨大な混沌を背中に背負ったような「天才」が出現する可能性は極めて小さかろう。

 将来的に、中国の今の教育方針を変更したら、可能かもしれないな。

 以下、新聞から抜粋。


 中国メディアの人民網日本は、日本のオタクはすでに死んでいるのか?というテーマについてる記事を掲載。
 記事は2013年の日本国内のアニメ市場規模は2428億円に達していたと。
 14年の規模は前年をさらに上回り、1985年当時と比較すると約10倍にまで市場規模は拡大。

 しかし日本のオタク文化について詳しい評論家が、「オタクはすでに死んだ」という見方を示していると。
 「オタクとは自主性を持ってオタクの美を創造、共有、伝えようとする人々」と定義、評論家によれば家でアニメを何日か見るだけでオタクを名乗ることができる今日、以前のオタクの精神はすでに継承が途絶え、評論家は「オタクはすでに死んだ」と主張。

 つまり評論家に言わせれば、本来オタクとは文化を創造できる極めて積極性のある人びとを指し、作品を享受するだけで満足する受け身型の人びとではない。
 実際、評論家は自らアニメ制作会社を立ち上げるほどの積極性と創造性を発揮した。
 今日オタクと称する人々に精神が欠如していることを指摘。

 最近、中国のアニメ産業の成長が著しいという報道を見聞きするようになったが、評論家の指摘が正しいとすれば、いつか中国のアニメ産業が日本を追い抜くということもあり得る。
 中国から生まれたアニメ作品が日本人の心を捉えるようになったとき、もしかしたら大きな変化の兆しであると言えるかも。

補足、感想など

 なにかよく分からない記事ではある。
 冒頭でふれた。
 日本のマンガは、昭和20年代に天才・手塚治虫が出現することによって、出発した。
 そして、手塚さんを追っかけるようにして、宮崎さん達もアニメを志したのだ。

 筆者は、昭和30年代、手塚さんのマンガを読みながら育った。
 そして、当時、手塚さんの描いた「未来」というものが、ずっと頭の片隅に残っているのだ。
 こういう未来でありたい—と願い続けている。

 オタクがどうたら—という論評は皮相的すぎる。
 マンガ、アニメという手法というか手段が、日本の社会の隅々に滲み込んでいることを思う。

 cmの方法として、難解な内容を理解しやすくする手段として、様々な発展の仕方をしている。
 いわば、日本独自の「文化的な武器」となっているのだ。

 武器は物理的なミサイル等というものだけではない。
 資本は財政・金融的な武器であろうし、マンガ、アニメは、文化的な武器なのだ。

 そのあたりまで含めれば、上の✕✕億円なんていう数字がいかに少なく見積もってのものか—理解できよう。