2015年2月27日金曜日

イスラム過激派の文化財破壊の意味はなにか?

いや、大きな表題を掲げたが、筆者に理由がわかぅている—という意味ではない。
 ただ。
 動画をみていて、1960年代-70年代の中国の文化大革命の映像を見ている思いがした。

 前王朝のものをことごとく破壊し尽くす。
 職人、文化人なども尽く殺害する—。
 1960年代の中国の文化大革命では、一説では、4500万人を殺害し、一部を人肉食した—という。
 また、この時の人肉食の経験のある中国人も日本に来ているようだ。

 こりゃ、一体なんなんだ?
 全く、真っ白にしてしまう—という意味はなんなのだ?

 科学とか技術などは、長い時代の試行錯誤の積み重ねだ。
 微分積分等を見てみよ。
 一代の人生で、到達するレベルか。
 連続するエンジンを見てみよ—技術者が一代で作れると思うか。

 数百年にも及ぶ先人達の試行錯誤のお陰ではないか。
 表題に掲げた文化財も同じだ。

 先人達の創造とか工夫などのモニュメントではないか。
 こういう積み重ねで今がある—とか感じないか。

 イスラム教とは一体なんであろうか。
 なにか、イスラム教という宗教に内在する「非寛容性」が、外に向かって攻撃性に転換していないか。

 以下、新聞から抜粋。

2015/02/27()
 過激派組織IS=イスラミックステートは、イラク北部で、メソポタミア文明の貴重な文化財を破壊したとする映像を公開し、文化財の保護を行っているユネスコは、破壊行為を非難するとともに、被害の確認を急いでいます。

 過激派組織ISは、紀元前7世紀ごろまで栄えたアッシリアの時代に作られたメソポタミア文明の文化財を破壊したとする映像をインターネット上に公開しました。
 映像では、博物館や遺跡とみられる場所でISの戦闘員が展示物の石像などを倒したあと、偶像崇拝に当たるとして、石像の頭部をハンマーやドリルなどで破壊している様子が写されています。


補足、感想など

 偶像崇拝にあたる—か。
 これが、核となる言葉だろうな。

 破壊した犯人達のコメントが記事となっていた。ご紹介したい。

 --ここから--

 イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」は、 イラク、モスルの博物館で、メソポタミア文明の収蔵品を次々と破壊する映像を インターネット上で公開した。
 ユネスコは、 文化財の破壊を差し止めるため国連安保理の緊急招集を要請した。

 公開された映像では、多数の男たちがモスルの博物館に 収蔵された文化的価値の高い多数の像を、イスラム教が崇拝を禁じる偶像だとして、 床にたたきつけ、ハンマーや電気ドリルで粉々に破壊した。

 男の1人は「(偶像は)アラー(神)が破壊を命じている。
 何十億ドルの価値があろうと 知ったことではない」と述べ、破壊を正当化した。

 さらに、遺跡でも、アッシリア帝国時代の翼を持つ 雄牛の格好をした、守護神の石像が破壊される様子が記録された。
 ユネスコの事務局長は、「強い衝撃を受けた」との 声明を発表した。

 モスル周辺には、ニネベの遺跡や文化財が多数残る。
 「イスラム国」はモスルや周辺地域を制圧後、聖人らの廟を相次いで爆破。
 今年、モスルの図書館に所蔵されていた哲学や科学、詩などイスラム関係以外の 書物を焼き払ったとされる。

 --ここまで--

 もう、狂人としか言いようがあるまい。
 お金の価値として、どうこうではない。
 自分達の先祖が営々と苦労し、工夫・創造したものを、そんなにも安易に破壊できるものなのか。

 あぁ、そういえば、文化大革命のとき、中国人はとんでもない人里離れた山の中にある寺院をも破壊していたなぁ。あのキチガイぶりと同じか。

 今の中国人を見よ。
 自分達の祖先からの文化、それに伴う文化財をすべて一旦、破壊しつくした人達である。
 まっさらといえば、聞こえがいいが、要するになにもない原っぱにポツンと取り残されたような人々だということだ。

 価値のあるものと思うものは、お金だけ。
 その拝金行動が、今の中国を成り立たせているのだ。
 文化を破壊し、環境を破壊し、歴史を捏造しまくる、そして、もうすぐ不動産バブルも崩壊する。

 あれっ、気がつけば、原っぱにポツンと取り残されている自分が見える。

 上のイスラム教の過激派ももう数年経てば、そのことが分かろう—あぁ、分からないか。
 いや、いや、もうご勝手に。


※追記。
 掲示板をみていると、長い間、海外にいて、日本に帰ってきたとき、気づくのは日本のお婆さんの物腰の柔らかさ--だという。
 逆にいえば、外国の老人達の虚脱状態のような姿と比較するからであろう。

 コレこそが、二千年近い、日本文化の賜物だと感じないか。

 筆者は、団塊の世代であるが、自分のものの見方の背景にある「日本文化」というものを強く感じる。
 梅をみても、桜をみても、フジをみても。
 それらにまつわる和歌とか、俳句とか、日本画、小説、歌などが頭の中で巡る。

 孤独ではない-といえばちょいとピントはずれだが、混沌とした蓄積された日本の文化というベールに覆われた形でものが見えるといえばいいのかな。

 だから。安心する。、
 それが、上で書いた「物腰の柔らかさ」というものに通じているような気がする。

 あぁ、こんなこと、フラジルへの日本人入植者についても感じたなぁ。
 我こそ、二千年近い日本文化の正統な継承者であり、体現者であるということか。