核心はそんなことではあるまい。
自分達のもつ文化的資源が、そもそもお金になるとは思っていなかったということだろう。
日本・日本人の様子をみて、また、外国人が日本のサクラというものに価値を見出していることをみて、始めて、文化的資源を再発見したということでしかあるまい。
そして、この中国人の感受性の鈍さの根底にあるものは、結局、中国王朝の歴代における「中国人愚民化政策」があるのだろう。
そして、更にその根底にあるのは難解化した漢字であり、漢文という中国人の採用した不完全言語の存在だ。
21世紀に入った今でも、識字率30%という現状を直視しろよ。
なにが、サクラの原産地が中国だ—か。
以下、中国の新聞から抜粋。
桜は日本を象徴する植物だ。中国人も日本という言葉から桜を連想し、桜の開花時期に合わせて日本への旅行を計画する人も少なくない。
中国メディアの当代先鋒網は、「中国原産の桜が今や日本を代表する名刺的存在になった」ことについて指摘し、桜が日本の「文化」となったことに「悔しさ」をにじませる記事を掲載。
最近、ある中国人が「日本の桜」だとしてネット上にアップロードした桜の写真が話題となったが、すぐに「その桜は日本のではなく、中国貴州省貴陽市にある桜だ」と指摘する声があがった。
そこから、「中国の桜の美しさは日本に劣らず、規模で言えば日本に勝っている」など、日中の桜の名所を巡る熱い討論が広げられた。
中国にも桜の名所が存在するのに「満開の桜の写真を見ると日本だと思ってしまうのは何故か」と訝しく感じる中国人もいるようだ。
記事は桜のルーツについて、ヒマラヤ一帯に起源があり、中国が原産国だと主張したうえで2000年以上も前にはすでに当時の王朝の宮廷内で栽培されていたと紹介。
その意味では桜栽培は、中国は日本より長い歴史を持つとし、桜は中国から日本に伝わったにもかかわらず、今や桜は日本人に愛され、文化に浸透し、「日本の儚さを示す象徴として、今や日本を代表する名刺的存在となっている」と指摘した。
そして、美しい桜が中国を代表する存在にならなかった要因として、「中国は文化的資源を数多く持ちながらも、それらを発揚する努力を怠ってきたため」と指摘。
例えば「カンフー」や「パンダ」は中国のものなのに、米国ではこれらをモチーフにしたアニメが作られ、ヒットしたことを挙げ、「中国も自国の歴史や文化を資源として利用し、新たに創造していく努力が必要だ」と分析した。
▲補足、感想など
文化的資源を持ちながら、それらを発揚する努力をどうたら—か。
う~ん。
要するに、中国人は、サクラを見ても、綺麗だと思わなかったということでしかあるまい。
今の中国人の花見の仕方をみてもそう思う。
サクラの木に登るとか、サクラを揺らして花を落とす—とか、そんなことができるのが不思議だ。
つまり。
中国人は、サクラを見ても、別に綺麗だと思っているのではないのだ。
単なる物体、単なる植物としかみていまい。
そこが日本人の感性とは違うのだ。
なんというか、文化というか、歴史というか、そんなベールに包まれた—そんな花なのだ。
ちょいと、サクラを巡る和歌を擧げてみようか。
--ここから--
人はいさ 心もしらず ふるさとは 花ぞむかしの 香ににほひける
紀貫之・古今集・百人一首35番
久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ
紀友則・古今和・百人一首34番
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
在原業平・古今集・伊勢物語
いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に にほひぬるかな
伊勢大輔・詞花集・百人一首61番
願わくば 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃
西行法師
--ここまで--
どうだ。
日本人の祖先たちが歌った和歌だが、こういう文化的ベールにつつまれた「サクラ」なのだ。
アニメ等でも、サンザン、材題として取り上げているだろう。
だからこそ。
日本人は、サクラが好きなのだ。
で。
中国人の「文化的資源の発揚」ってなにさ。
歴代王朝に愚民化政策をとりつづけられて、サクラをテーマとして作ったものさえあるまい。
繰り返せば。
中国人が、サクラがどうたらいい始めたのは、日本でのサクラを巡る例えば、花見とか—でお金になりそうだと気づいたからであろう。
花見 → 人が集まる → お金になる → 文化的資源の再発見 ということでしかあるまい。