2018年1月8日月曜日

ペリー提督は、極悪の侵略者か

表題は、中国人の言いだ。
 ペリー提督は、日本では英雄だが、中国では極悪の侵略者となるのだそうな。
 この中国人の感覚って一体なんだろうなぁ。

 まぁ、日本人が英雄と考えているかどうかは怪しいが。
 でも。
 1853年に黒船できて、むりやり日本を開国させなければ、日本が西欧化、富国強兵に方向転換するのは、1900年代に入った頃かもしれないな。
 その意味で日本人はペリー提督に感謝している。

 で。
 そのペリー提督を極悪の侵略者よばわりをする—という中国人の感覚に「奇異」な感じを受ける。
 なぜ、そう思うのだろうか。

 以下、中国の新聞から抜粋。

 日本と中国だが、習慣的な違いや、辿ってきた歴史の違いなどから、1つの事物に対して全く異なる見方をすることがある。中国メディアは、「どうして日本人はペリーを英雄扱いし、記念碑まで立てるのか」とする記事を掲載。
 記事は、「ペリーは中学、高校の歴史を学んだ人であればみんな知っているだろう。われわれは中国人にとってペリーは極悪人であり、少なくとも彼に対して複雑な感情を抱いていがちだが、残念ながらそれは誤りである。ペリーは日本国内では、ほぼ英雄扱いなのだ」と。

 そして、1853年にペリー率いる4隻の黒船が日本にやって来て武力を示しながら開国を迫り、不平等条約である「日米和親条約」を締結させたこと、その後、英国、ロシア、オランダなども米国に倣って日本と同様の条約を結んだことを説明。
 「日本は半植民地、半封建社会という局面に陥ったのである」と解説。
 そのうえで、「われわれからすればこれは大いなる屈辱であり、記念碑を立てることはおろか、名前を見るだけで吐き気がすることだろう。なぜなら同時期の中国も同じ状況にあったからだ」とし、清朝が第1次アヘン戦争に巻き込まれるまでの過程を紹介。
 「われわれの頭のなかでは、ペリーはアヘン戦争勃発に関わった英国の外交官チャールズ・エリオットと同じ扱いの人物である」と。

 一方、「日本人は横須賀にペリー公園を建設した上で、伊藤博文直筆による記念碑まで作った。 そして、毎年開国を記念するペリー祭りが現地で開かれる。
 これはなぜなのか」と疑問を提起。
 その理由として、ペリーの来航が日本人の目を覚まさせ、国の門戸を開いて欧米の文明や経験を取り入れる大改革へとつながり、さらには、欧米列強に肩を並べる大国に成長する流れを生んだという考え方が日本人にあるからだと。
 記事は、日本人が「日本に、もしペリーがやって来なかったら、日本は中国のように列強に蹂躙されなかったとしても、さらに100年間は国を閉ざしたかも知れない」と考えていると。

補足、感想など

 100年は大袈裟であろうが、数十年は遅れたろうな。

 つまり、過程はともかくとして、「結果オーライ」なのだ。
 日本人にとって、ペリー提督という人は、中国人のいうような「極悪の侵略者」とは感じないのだ。
 逆にいえば、中国人の感覚がおかしいのだろう。

 あぁ、中国人の場合、アヘン戦争の敗北・日清戦争の敗北と繋がっているから、イメージが悪いということか。
 でも、そりゃ、と思う。
 19世紀後半の時点で、識字率5%の民族になにができるのだ?
 95%の国民が、無学文盲、無知蒙昧の世界に沈み込んでいたのではないか。
 
 つまり。
 黒船来襲という欧米という産業革命組の諸国からの「刺激」に対して、日本と中国はどのように対応したか—という「来襲された側」の能力の問題なのだ。

 まず、日本から見てみようか。

 --ここから--

 1853年7月8日に浦賀沖に出現して東京湾に入り、開国を迫ったペリー率いる黒船について 「中国同様長年鎖国政策を取っていた日本にとっては侵略者であるのに、どうして日本はその像を建てたのか」と問題提起。
 そして、当時日本は鎖国政策を取っていたものの「清王朝のように耳目を塞いでいた訳ではなく」、長崎・出島への中国およびオランダ商船の入港を認め、その代わりに世界の情報をヒアリングしていたと説明。

 アヘン戦争の情報もすぐに日本に伝わっており、それまで「来たら打ち払え」という姿勢だった幕府が1842年に薪水給与令を出すなど、鎖国政策を軟化させていった。
 また、日本の幕府はオランダ人からペリー来航を事前に知らされていたとも紹介。

 日本が自らの国力不足を悟り、抵抗しても中国の二の舞になることを知っていたことから、米国も過激な措置を取ることなく事を運んだと伝えている。
 外界の情勢を知ろうとせず失敗した清朝と、情勢を弁えて欧米列強に対応し、明治維新以後の改革を実現した日本について、「もし互いの場所が入れ替わっていたら、中国も日本のように鎖国を止めて近代化の流れに入っただろうか。

 それは明らかに不可能だ。
 歴史的にチャンスがなかったわけではなく、『黒船事件』の50年前に英国が北京に使節を送り通商を求めたのを、乾隆帝が断ったのだから」と論じた。
 そして、もしこの時に国の門戸を開いていれば、最初の産業革命の波に乗れたし、その後の紆余曲折を避けることができたのだ。

 つまり、日本でペリーは「侵略者」ではなく、日本の門戸を開くきっかけを作ってくれた、リスペクトすべき人物であるとの認識ゆえ、「ペリー公園」やら「ペリー記念碑」やらが作られる、ということ。
 結果論ではあるが、日本は米国の要求を半ば素直に受け入れたことで急速に国力をつけることに成功し、「中華」のプライドを持つ中国大陸は非常に大きな回り道を余儀なくされた。
 
 --ここまで--

 対して、中国では

 --ここから--

 時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。
 一方、イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ、イギリスの大幅な輸入超過であった。
 イギリスは産業革命による資本蓄積やアメリカ独立戦争の戦費確保のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。

 そのためイギリスは植民地のインドで栽培した麻薬であるアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。
 中国の明代末期からアヘン吸引の習慣が広まり、清代の1796年(嘉慶元年)にアヘン輸入禁止となる。
 以降19世紀に入ってからも何度となく禁止令が発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。

 また、人口が18世紀以降急増したことに伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増えたこともそれを助長させた。
 アヘンの代金は銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転、清国内の銀保有量が激減し銀の高騰を招いた。

 --ここまで--

 冒頭でふれた。
 中国が、ペリー提督を「極悪の侵略者」というのは、アヘン戦争での敗戦から、欧米の植民地へとつながる惨めな歴史故であろう。
 19世紀半ばでは、日本の支配階級であった武士階級の識字率は、ほぼ100%だ。
 対して、中国人はおおよそ5%という状況だ。

 要するに、黒船来襲という欧米諸国からの刺激に対して、中国という民族は、まともに「対応する能力」がなかったということだ。国民の殆どが、無学文盲・無知蒙昧、黄巾賊のような蛮族なのだ。 
 だからこそ。
 英国の軍事力に対抗することもできなかったのだ。

 自分の能力不足を棚にあげて、他者を「極悪の侵略者」呼ばわりか。

 そういえば、日本を侵略者呼ばわりしているのも、同じ理由か。