▲男として、兵士として立派な人であった。
ご冥福をお祈りしたい。
この人をみて、命令 → 命令されたことを忠実に守る という基本的なことをキチンとできる人をしらない。
そして、その行動の背骨となっていたことは、「日本人としての矜持」であり、日本人兵士としての「誇り」であろう。
そして、そうなしめたのはおそらくこの人の学歴だ。
小野田さんは、陸軍中野学校の出身だ。
陸軍のエリートとして、「上官の命令に絶対に従う」ということを30年という歳月をつかって証明した人だ。
以下、新聞から抜粋。
小野田寛郎さん死去…終戦知らず比ルバング島で30年過ごす
太平洋戦争の終戦を知らずにフィリピン・ルバング島で30年間過ごした元陸軍少尉の小野田寛郎さんが死去した。
91歳。和歌山県出身。
「小野田自然塾」(東京都中央区)関係者は「亡くなったという連絡を受けている」と明かした。
近く、近親者のみで密葬を営むとみられる。
小野田さんは1942年に和歌山歩兵第61連隊に入隊。
44年にルバング島に派遣され、情報員の任務を与えられた。
しかし、終戦を知らずジャングルに潜伏。51年に帰国した元日本兵の証言からその存在が判明したが、作戦解除命令がないことを理由に部下とともに山中にとどまっていた。
74年3月、捜しにきた元上官らの任務解除命令を受け、山を下りて救出され帰国した。
帰国後の翌75年、ブラジルに移住。原野を開拓して牧場をつくった。
84年、ルバング島での経験を生かし、たくましい青少年育成のために「小野田自然塾」を開設。キャンプ生活を通して自然の大切さや、
目的を持ってたくましく生きることなど人間の本質を教えていた。
近年は都内で暮らし、国内各地で精力的に講演を実施。
ルバング島での体験を振り返り、「生き続けようという目標を持っていたことで、
日本に帰ることができた」などと話していた。
◆小野田 寛郎(おのだ・ひろお)1922年(大11)3月19日、
男5人、女2人の7人きょうだいの四男として和歌山県亀川村(現海南市)で生まれる。
日本帰還後に移住したブラジルでは牧場で1800頭の肉牛を飼育していた。
著書に「戦った 生きた ルバン島30年」(74年)。05年、藍綬褒章を受章。
▲補足、感想など
記事では「終戦を知らず」--となっているが、知らないのではない、終戦したことを知っていた。
小野田さんの場合は、「知る、知らない」ではない。
冒頭でふれたように、小野田さんは、陸軍中野学校の出身だ。
上官の命令に絶対に従う—ということをトコトン叩きこまれた人なのだ。
敗戦直前に、日本軍がこのルバング島を撤退するとき、小野田さんの上官は小野田さんにむかって、この島に残って情報を集めよ—とか指示したのであろう。
<上官は、終戦になれば小野田さんが自分で判断して、命令を無視して帰国してくるだろう—という考えだったのだろうな>
しかし、中野学校出身の小野田さんにとっては、命令が撤回されるまでは、その命令に従うしかないのだ。
だから、記事にあるように、戦後30年後に上官によって命令が撤回されて、始めて帰国できたのだ。(だから、昭和50年まで小野田さんは、情報兵として戦闘状態にあったということ)
男として、いや、日本人兵士として、これを愚鈍だ-とか笑えるか。
昭和50年頃かな。小野田さんの帰国の時、筆者にはその理由が分からなかった。(若すぎたのだろうなぁ)
この年令となって、小野田さんのもつ「日本人兵士としての矜持」がよく分かる。
日本人としての誇りがよく分かる。<日本へ帰国した時の写真を見てみよ>
その「男らしさ」に涙ぐんでしまう。
戦前に教育を受けた日本人として、もっと賞賛されていい人だと思う。