▲もう、3年前になるか。
東日本大震災で、宮城県の大川小学校というところで、先生・生徒の多くの被害がでた。
他校と比べても、被害が大きかったので、父兄から多くの疑問が出された。
そこで、外部の専門家もいれて検証してみよう—と委員会が立ちあがり、その最終報告がでることとなった。
この件に関して、筆者は詳細な個人名を出すような報告が出ることに反対しつづけた。
それは。
東日本大震災というような大きな災害に襲われたとき、誰もが正しく選択・判断できるわけではないからだ。
小学校の先生方とはいえ、普通人なのだ。スーパーマンなんかではない。
経験したこともない巨大な津波が押し寄せてきた時、誰もが的確な判断ができるわけではない。
あの大震災で生き残ったという人は、本当に「運のいい人」だけなのだ。
そんな場合に、大川小学校の被害が大きかったから—と言って、a先生が、
b先生が判断ミスをしたから、子供達が死んだのだ—式の報告がでていいものなのか。
何度でも言いたい。
大川小学校の先生は。普通の人なのだ。スーパーマンではない。
そんな人達に向かって、死者を鞭打つような—そんな報告書が出ていいものなのか。
なにもかも、ひっくるめて、「運が悪かった」と許容してあげるべきではないのか。
どうやら。
検証委の報告書の内容は、上で筆者が触れたようなことを避けているようだ。
それでいい—と筆者は思う。
以下。新聞から抜粋。
検証委は、校庭が危険な場合の具体的な避難先を学校が想定せず、災害情報収集も不十分であったと指摘。
一方、これまで遺族の一部は、校舎の裏山えの非難を訴えた児童もいたのに、学校側が拒んだと主張。
検証委は、そうした児童がいたのとの証言があったことを認めた上で、教職員が余震で危険だと考えて、非難をみ送ったとみられるとした。
▲補足、感想など
父兄から。
到底、納得でいない。これが検証なのか—の声があがったらしい。
筆者には、父兄が常識を逸脱しているように聞こえる。
どうしても、a先生が,b先生が、こう判断ミスをしたのだ--と公表せずには我慢できない--と聞こえる。
しかし、なんどでも言いたい。
先生方は、普通の人なのだ。スーパーマンであるわけがない。
巨大な災害の不意打ちを食らって、誰しもが適確な判断ができる訳があるまい。
自分に置き換えてみよ。
想像したこともないような災害に遭遇した時、自分自身、正しい判断ができるものかどうか。
どうも、今の風潮として、「他者にスーパーマンであることを期待」しすぎる。
自分にもできないようなことを他者に求めすぎる。
いや、少しかっとなった。
元に戻せば。
報告書の内容としては、記事の程度で充分だと思える。
大川小学校の事故の経験は、いろんな形で、これから起こるであろう災害に対する「的確な対応」へのテキストとして残っていくであろう。
検証はこれで充分だ。
もう、蒸し返すまい。