▲実験動物か—か。
筆者は、団塊世代だから、「詰め込み教育」の実験動物か---。
ゆとり世代と対比して丁度、好都合だな。
ゆとり教育か。
教師達が、俺達も「土曜日を休みたい」という欲求を叶えるために、ゆとり教育なる「お題目」をでっちあげたものだ。
ゆとり世代の親達を「だまくらかすために」。
文部省の頭のいい役人が、こしらえた「きれいごと」だ。
要するに。
日教組を中心とする義務教育の教師達が、俺達も土曜日に休みたい---と。
その目的を叶えるためには、日数を減少させるしかない。
日数を減らすために、勉強する内容を減少させればいい。
そのお題目が、「ゆとり教育」だったのだ。
以下、新聞から抜粋。
文部科学省が「脱ゆとり」に自信を見せる――。
11月に報じた記事をきっかけに、ゆとり世代から反感の声が集まる。
ゆとり教育で導入された授業時間の削減が、学力低下を招いたとして、文科省では学習内容を増やすなど教育方針の転換を行った。
「ゆとりが失敗と言うなら、その世代に補償はないのか!」
これに対して憤るのは、「ゆとり世代」だ。
現在13歳から29歳の人が該当するが、ネットでは、
「脱ゆとりって言われると、良い気はしない」「ゆとり世代からすると『ゆとりですがなにか?』って感じ」と。
「『これだからゆとりは』『ゆとりのくせに』ってバカにした挙句『脱ゆとりに自信』だの何だのと他人の子供を失敗作呼ばわりする気分ってそりゃあ最高でしょうね」
「脱ゆとりに自信って文言から読み取れるのは『お前らは失敗作です』ってことだもんな。教育受けた側がdisられるって普通になんで?」
「脱ゆとりっておれら実験動物かよモルモットかよ生贄かよ」
「脱ゆとりって文科省がゆとり教育を失敗みたいに言うなら、そのゆとり教育を受けさせられた世代に対する補償はないのか?」と。
国の教育方針に振り回され、仕事でも「これだからゆとりは」とマイナスイメージを持たれてきたゆとり世代からすれば浮かばれないのだろう。
結局はつめこみ型に戻っているだけ?
「脱ゆとり世代」の子供を持つ親からは、学校の勉強が「脱ゆとり」の反動できつくなりすぎている、という声もある。
「学校から時間割りが配られたんだが、
一年生で毎日5時間授業って、脱ゆとりスゲーな。
ゆとりが始まってなかった自分の時より 授業数が増えてるぞ」
「私が見ていても嫌になるくらいの宿題の多さだ。
脱ゆとり世代とはいえ土曜休みは続行だから詰め込みすぎなんだよ」
ゆとり教育はもともと、つめこみ型教育の弊害の軽減を目的に考えられたものだが、結局のところ昔の方針に戻っているだけ、という印象を受ける。
また、財務省は小中学校の教員を10年間で5万人減らす案を出している。
しかし、「確実に言えるのは、生徒数減っても先生の数はこの詰め込み感では足りてない」という声も出ていた。
▲補足、感想など
詰め込み過ぎ?
なんだ。その言い方。
子供に詰め込み過ぎもへったくれもあるものか。
筆者は、「詰め込み教育」こそ、最高最善の教育方法だと信じて疑わない。
子供の時、詰め込むだけ詰め込め—と思う。
知識こそ「力」なのだ。
日本人の目には、もう、産業革命組の諸国の「背中」さえ見えない。
手本も見本もない。目標すら定かではない。
そんな世界の中で、自分の眼と自分のもつ才覚だけを頼りにして、未来を切り開いていかなければならないのだ。
最前線に立つということはそういうことだ。
だから。
「あらんかぎりの力で、詰め込むだけ詰め込め」
ゆとり教育世代というのは、「教師達が土曜日を休みたい」という欲求のために、文部省と結託してでっちあげた「方便」の結果、生じた鬼っ子世代だ。<背後に、詰め込み教育に対する反感があったのだろうな>
それは、また、筆者のごとき、戦後のベビ-ブームの結果、自動的に「競争社会・詰め込み教育」世代となったものと好対照であろう。
いいではないか。
時代の変化の中で、生じた特徴ある世代なのだ。
ゆとりがどうたら--言われて悔しかったら、勉強すればいいこと。それだけの話しだ。