▲どのあたりから。
大きな意味で、世界でのエネルギー源が、石炭 → 石油 となることを見越して成功した男の足跡であると言えよう。
現在、エネルギー源が 石油 → 原子力 となる筈のところが、モタモタしていることを見ると、先覚者であるというだけではうまくいかないということも理解できよう。
映画では名称などが変えられているのだが、モデルとなった[出光 佐三—いでみつさぞう]という人の略歴をウイキペディアから抜粋・転記してみよう。
--ここから--
1885年(明治18年)8月22日
福岡県宗像郡赤間村(現・福岡県宗像市赤間)に誕生。
父は藍問屋を営む出光藤六、母は千代。
1901年(明治34年)
福岡市商業学校(現・福岡市立福翔高等学校)に入学。
1905年(明治38年)
神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)に入学。
1909年(明治42年)
同校卒業。卒業論文は「筑豊炭及び若松港」。
神戸大学在学中、佐三は将来外交官になろうと考えていた。
当時同校の卒業生は海運会社の社員に就職するのが通常だったが、神戸で小麦粉と石油・機械油などを扱う従業員3人の酒井商店に丁稚として入店。
学友から「お前は気違いだ。学校のつらよごしだ」と言われる。
1911年(明治44年)6月20日
日田重太郎(資産家。日田の息子の家庭教師を佐三が務める)から別荘を売却して得た資金8,000円を渡され、満25歳で独立。
その条件は「ただやるのだから返さなくていい。利子もいらない。また、事業の報告もしなくてよい。 君が好きに遣え。ただ、独立を貫徹すること。そうして兄弟仲よくやってくれ。」。
福岡県門司市に出光商会を設立。日本石油(現・JXエネルギー)の特約店として機械油を扱った。
1914年(大正3年)
南満州鉄道に車軸油の納入成功。
1919年(大正8年)酷寒の地・満州で車軸油が凍結し、貨車のトラブルが続出していた南満州鉄道に「2号冬候車軸油」を無償で提供。
当初は使われてすらいなかったが、単身満州にわたり満鉄本社に直談判し、現地で試験を行い、事故を一掃した。
1927年(昭和2年)満鉄創立20周年のときに、感謝状と銀杯が贈られた。
1923年(大正12年)
関東大震災に際し、全店員に禁煙を呼びかける。
1924年(大正13年)
第一銀行(現・みずほ銀行)からの25万円の借入金引き揚げ要請があったが、二十三銀行(現:大分銀行)の林清治支店長が肩代わり融資を決め、窮地を脱する。この頃、自殺説までささやかれる。
1929年(昭和4年)朝鮮における石油関税改正のために奔走。
1932年(昭和7年)
門司商工会議所会頭に就任。
1935年(昭和10年)「満州国」の石油専売制に反対。
1937年(昭和12年)2月
貴族院議員(多額納税)として登院。
1938年(昭和13年)国策会社大華石油設立に反対。
1940年(昭和15年)3月
出光興産株式会社を設立。
1941年(昭和16年)北支石油協会の設立に反対。
1943年(昭和18年)石油販売法に反対。
1945年(昭和20年)8月
出光佐三は、終戦の2日後、従業員に「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」と訓示した。
当時、多くの企業が人員を整理する中、出光佐三は約1千名の従業員の首を切らないことを宣言した。
1946年(昭和21年)国際石油カルテル独占を規制することを建言。
1947年(昭和22年)公職追放令該当のため貴族院議員資格が消滅。
出光、石油配給公団の販売店に指定される。出光商会と出光興産が合併し、出光興産として再出発(11月)。
1949年(昭和24年)出光興産、元売業者に指定される(10月)。
1950年(昭和25年)出光興産、石油製品の輸入を主張。
1951年(昭和26年)出光興産、日章丸二世を建造。「消費者本位の石油政策」を発表(9月)。
1952年(昭和27年)出光興産、高オクタン価ガソリンを輸入。
1953年(昭和28年)5月9日
イラン石油輸入{日章丸事件:日章丸二世(1万9千重量トン)が、石油を国有化し英国と係争中のイランのアバダンから、ガソリンと軽油を満載し、川崎へ入港}。
英国アングロイラニアン社(BPの前身)は積荷の所有権を主張し、東京地方裁判所に提訴したが、出光の勝訴が決定し、日本国民を勇気付けるとともに、イランと日本との信頼関係を構築した。
この時、佐三は、東京地方裁判所民事九部北村良一裁判長に「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓いいたします。」と答えた。
1957年(昭和32年)出光興産の徳山製油所、竣工(3月)。
1960年(昭和35年)出光興産、ソ連石油を輸入(4月)。
1962年(昭和37年)
生産調整に反対し、出光興産、石油業法に反対。石油連盟脱退を決める(1966年(昭和41年)、生産調整・廃止を受けて復帰)。
1963年(昭和38年)出光興産の千葉製油所、竣工。
出光興産、石油化学工業へ進出。出光興産、石油連盟から一時脱退(11月)。
1966年(昭和41年)
出光興産の社長を退き、会長に就任。
1972年(昭和47年)
出光興産の会長を退き、店主に就任。
1981年(昭和56年)3月7日
満95歳で死去。
--ここまで--
特筆すべきは、敗戦後2日めの発言をみてみよう。
「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」--と。
映画では、アメリカの石油卸大手のメジャーとの争いが、克明に描かれていて、アメリカに遠慮もせずに描くことができるようになったのだなぁとある意味感慨深い。
海賊がどうたらという呼称は、独立した頃に、焼玉エンジンの燃料を開門海峡に小舟を出して、海上で売り捌いたことに由来するようだ。
全体の印象からすれば、日本の石炭 →石油へのエネルギー革命を先覚者としてとらえたということであり、このエネルギー革命をアメリカ・イギリスにあるメジャーと呼ばれる大手資本から独立した民族資本のままで、石油を扱いつづけた「一匹狼ぶり」にその価値があるのであろう。
最後にウイキペディアで「その他」に書いてあった部分を転記したい。
--ここから--
小学校の頃から神経症と眼病を患い読書より自分の頭で考え抜く習慣を身につける。
皇室を極めて篤く崇敬したので死去した際に昭和天皇が「出光佐三逝く
三月七日 国のため ひとよつらぬき 尽くしたる
きみまた去りぬ さびしと思ふ」と詠んだ。
2011年6月20日の出光創業100周年記念日には「日本人にかえれ」の名言が新聞広告に掲載された。
--ここまで--
くりかえしたい。
--
国のため ひとよつらぬき 尽くしたる
きみまた去りぬ さびしと思ふ--