▲中国人の視点はどこかおかしい。
その視点の歪みの根本にあるものは、おそらく「科挙制度の弊害」だ。
いや、科挙制度というものが間違っていたとか悪かったというのではない。
ただ。
考試の内容が、「文系」に偏りすぎていて、「実技」を無視したという点に、中国人の「視点の歪み」の根幹があるのだと思える。
もう、科挙制度を廃止して、100年以上は経過しているだろう。
科挙制度というものの「内在する弊害」というものを、直視する時が来ているのではないのか。
以下、新聞から抜粋。
中国メディアは「中国には日本のような職人気質が必要か」とする記事を掲載。
現在の中国ではある理由により、日本とは性質の異なる職人気質が求められていると。
記事は「工匠精神」(職人気質)という言葉が中国の大手企業の間に広がり、職人気質を発揚することが中国製造業のトレンドになっていると紹介。
「職人気質というと、日本やドイツを挙げざるを得ない。日本製、ドイツ製製品のとりこになる中国人が出現する理由は知っての通り。
今中国に職人気質が求められているのは、中国経済の発展に対して、国内の製造業やサービス業が一部の人のニーズを満たせなくなってしまったからだ」と。
しかし、中国社会には日本の手工業者のような、職人気質が必要だとの認識があるとする一方で「日本の経験から見れば、このような職人気質は中国経済の発展を妨げるリスクも持ち得る」と指摘。
「職人気質はもちろんいいことなのだが、それを学ぶ際には注意すべき点がある。
優れた人材を大量に投入し、長い時間をかけて開発し、理想の商品を提供したとしても、生産効率が低いままでは利益の出しようがない。
そして、1つの物事に執着しすぎれば、新しい技術やイノベーションの波に置いて行かれてしまう」と論じた。
そこで結論は「中国には100%の職人は必要ない」というものだ。
中国の大部分は決して豊かではなく、80点の商品を50点の価格で売るというコストパフォーマンスがとても重要であり、現在の中国に必要なのは「適度なところで止められる職人気質」なのだと。
記事は「必要なのは100点の完ぺきな製品ではなく、適度な価格で提供できる95点の製品。
95点の製品で市場シェアを拡大し、生産規模を増やせば、企業にはさらに品質を高める余力が生まれる。
そこで改めて100点の製品とサービスを提供するようになれば、先進国の企業にとっては脅威になるはずだ」と。
確かに、1人あたりの所得水準を考えれば「職人が精魂込めて手づくりしました」という高級品を生産したとしても価格が高すぎて売れないかもしれない。
ただ、80点の商品を生産するなら職人気質も80%でいいという考え方には違和感を覚える。
「80点でいいんだ」と考えて物を作るのと、研究を重ねてコストパフォーマンスの良い80点商品を追求するのでは意味が全く異なってくる。
前者はやがて80点の商品すら作らなくなるだろうが、後者はいつしか100点に近い商品を作る力を身に付けることだろう。
大切なのは点数やパーセントの問題ではない。自分たちが作るべきもの対してどれだけ真剣に向き合えるかなのだ。
▲補足、感想など
中国人って、頭でっかち—だな。
理屈ばかりが先にたって、本質というか核心が見えないのだ。
えっ。
中国人って、農耕民族だったな。
稲とか小麦とかが、「手を抜いて」育つのか? アヒルを育てるのに「手を抜いて」育つのか。
上の記事のような文章を書く人間って、「自分の手でなにかをしたことのない」「手の綺麗な」人間だろうな。
ここらあたりだな。
科挙制度の弊害は。
文系の自分の手で、自分の指で、なにもしたことのない、肉体労働をしたことのない—そういう「綺麗な服」を着て、他者に命令だけをしたい--そういう人間が発する「戯言」でしかない。
こういう「文系頭脳」の発した命令が「万里の長城」であろう。
騎馬民族が、馬も登れぬような山頂を通るか。
幹線街路周辺だけ、設置すればいい防御壁を、山の天辺まで作る—その不合理さを認識したことがあるのか。
中国という民族の不幸というものは、漢字ばかりの中国語というのも一つだが、「文系頭脳」の人間が、大臣としてトップを占め続けてきたということだな。
「自分の手を汚したことのない」「視野の際立って狭い人間」が、偉そうに、国内のあらゆることに関与して、命令する。
それが、19世紀始めの英国との「アヘン戦争」の敗戦ということに繋がるのだろうな。
そこが、日本の明治維新を成し遂げた、例えば「適塾の出身者達」と違うところだろう。
いや、話がとんでもないところへ。
中国人は、上でふれたような「科挙制度の弊害」を直視しないと、「合理性」「科学性」を軽視しつづけるだろう。
なにが、工匠精神か。
大笑いでしかあるまい。