次期ペルー大統領選は、2021年に予定されている。
フジモリ家の姉弟が、大統領選を争うことになるかもしれない。
まず、兄弟喧嘩の記事を抜粋。
南米ペルーで日系人の元大統領、アルベルト・フジモリ氏(79)の長女ケイコ氏(42)と、次男ケンジ氏(37)の対立が激しくなっている。
ケンジ氏はケイコ氏が党首を務める最大野党を飛び出し新党結成を発表。
いずれも2021年に予定される次期大統領選への出馬を模索しており、政治家一家の「きょうだいけんか」は、環太平洋経済連携協定(TPP)に参加する南米の新興国の政局に発展しかねない。
ケンジ氏は4月中旬に検察当局で、姉の汚職疑惑について情報を提供した。
ケイコ氏には2011年の前々回の大統領選に出馬した際、ブラジル建設大手のオデブレヒトから違法に選挙資金を得た疑惑がある。
2人の不仲は長く噂されていたが、決定的となつたのは3月にケイコ氏の最大野党フエルサ・ポプラルが公開した隠し撮りの動画だった。
ケンジ氏が17年12月の議会でクチンスキ大統領(当時)の罷免決議案を否決させるため、同案を提出したフエルサ・ポプラルの議員に党への造反を持ちかける様子が映っていた。
ケンジ氏は人権侵害などの罪で服役していた父フジモリ氏の恩赦を実現するため、クチンスキ氏の罷免回避に尽力。罷免案が否決された直後、大統領が恩赦を発表した。
16年の前回大統領選で惜敗した政敵、クチンスキ氏の追い落としを画策していたケイコ氏は激怒。
離党したケンジ氏は3月、フエルサ・ポプラルの議員の一部を引き抜き、新党カンビオ21の設立を発表した。
ケンジ氏の動画公表は、新党発表の当日だった。
カンビオの意味は「変革」。フジモリ氏が設けた政党カンビオ90にあやかる。
政治基盤の弱いケンジ氏が父の「後継者」として、次期大統領選を目指していると受け止められている。
ケンジ氏の動画が決め手となり、クチンスキ氏は辞任。
第1副大統領だったビスカラ氏が大統領に昇格した。
ケイコ氏は 「弟が(買収工作に)手を染め、ペルー国民を傷つけたことを残念に思う」とコメントした。
従来はフエルサ・ポプラルが議会(一院制)の議席の約5割を占め、クチンスキ前政権との対決を鮮明にしていた。
カンビオ21創設で過半数を割り今度は姉と弟の確執が政界を揺るがしている。
▲補足、感想など
南米の政治においての日本人の位置のようなものを確認しよう。
--ここから--
2016年04月14日
フジモリは経済を立て直した有能者だよ。支配層からは相当嫌われたみたいだが
■まぁ、フジモリの頃のペルーを近隣諸国は見てるから、ブラジル以外は随分と
うらやましかったんじゃないですかね。
エクアドルはバカだから、喧嘩(戦争)
しましたけれどね。アレが無ければ、エクアドルにも日本の金が落ちてたはず。チリはまぁ、金持ちですからあれとしても、ボリビアには結構金入ったはずなんだ
けどね。移民もいますし。沖縄の人が多いんですよ。
2011/04/08(金)
日系がなったとしてもつぶされる。
まず、日系になると白人富裕層が冷遇され、民衆主体の左派政権で反米になる。
これをアメリカは極度に嫌い、中東でも親米独裁を許容
して国の特権階級腐敗と民衆の不幸を生んだ。
フジモリもアメリカのメディアにあることないこと
捏造報道されて犯罪者に仕立てられてあっけなく終わった。
2011/04/08(金)
南米はその路線を貫こうとしたCIAが大失敗して、去年の秋にエクアドルで大失敗してるだろw
まあ、日本ではテレビは1秒も報道しなかったし、新聞などもごくごくわずかにしか報じなかったが。 あのビルの窓を開けて民衆を集めての演説での「私はここにいるぞ! 殺してみろ!」ってのは、
正直胸が熱くなる展開だったし、日本の報道が完全にブロックされていたのもなるほどと言える事件だった。
エクアドル大統領更迭失敗騒動以降、南米では反米にはそういうイメージはないよ。
2011/04/08(金)
フジモリほどペルーの先住民族の貧困対策に尽くした政治家はいないし今後も出ないだろう。
彼はとにかく貧乏人のための政治をした。
貧困に悩む先住民族にとってフジモリの政治は希望だった。
--ここまで--
つまり、旧支配階級であるスペイン系を中心とする白人層からは、インディオ系のペルー人はバカマヌケであって欲しいのだ。
それを、日本人が大統領になるとインディオ達に教育とかを与えようとする。
すると、自分たちの地位が脅かされる—と考えて、日本人の政治家をナンタラいって、潰そうとするのだ。
また、アメリカも自分の裏庭で、日本人が活躍することを快く思わないのだ。
それが、フジモリ潰しとなっているし、南米諸国の経済発展がなかなかできない理由でもあるのだ。
ちょいと、ケンジ氏の記事をみよう。
--ここから--
ペルーのフジモリ元大統領の長女で最大野党「フエルサ・ポプラル」党首のケイコ氏は7日、地元テレビのインタビューで「(国会議員のフジモリ氏次男)ケンジは(政敵)クチンスキ大統領の側につく決断をした。幸運を祈る」と述べ、関係がぎくしゃくしていた弟との決別を宣言した。
既に会派を追われていたケンジ氏は1日に離党。
次期大統領選は姉弟が骨肉の争いを演じる公算が大きくなった。
ケイコ氏は「弟との争い、隔たりがあるのは事実だ」と認めた上で「ケンジは党や所属議員を侮辱したり、批判したりした。姉だが、処分を許可せざるを得なかった」と吐露。「こちらからはしばらく会いたくない」などと語った。
ペルーのフジモリ元大統領の次男ケンジ氏=1月31日、リマ(AFP=時事)
当選を重ねて自信を深めるケンジ氏は、大統領選2連敗中の姉をたびたび間接的に挑発。
昨年12月下旬に「フエルサ・ポプラル」がクチンスキ大統領を罷免決議案で追い込んだ際、ケンジ氏が仲間と共に棄権に回り、決議案が否決されたことで溝は決定的になった。
直後にクチンスキ氏が獄中にあったフジモリ氏の恩赦を決定。
ケイコ氏を飛び越してケンジ氏とクチンスキ氏の間で「密約」が交わされたとみられ、独断専行に業を煮やした党は1月末にケンジ一派の会派追放を決めていた。
今も大きな影響力を持つとされるフジモリ元大統領はケンジ氏に肩入れしているが、ケイコ氏は「父がどう判断しようと愛情は変わらない。政治とは別」と強調した。
ただ、政治指導者の支持率を問う最新世論調査では、トップランナーだったケイコ氏は24%の4位と息切れ気味。一方のケンジ氏は34%で首位を走っており、2021年の大統領選に向けてフジモリ家の分裂は深まりそうだ。
--ここまで--
補足として、ペルー、フジモリに関する書込みを転記したい。
--ここから--
2016/03/21(月)
そりゃ、卑劣な言いがかりでフジモリを刑務所にぶち込んだシロンボどもはびびってるだろうな。
問題はそのとき、つまり“民主主義の危機”のときに欧米はどういう態度を取るかということ。
イスラム原理主義が選挙で政権を取ったのにそれを武力で潰した側を欧米が支持したのと同じ態度になるのか?
2016/03/21(月)
南北アメリカで最初に大学が出来たの(スペインが作った)はペルーのリマ大学。
断トツに早かったからペルー人は新大陸一番の近代的大国だと思ってる。
社会上層部や高学歴層は贔屓にしてないがケイコ人気は中下層には絶大。
とうせんして親父が資本家や米国に誣告されて中断した中下層民対策をやり遂げてほしい。
2016/03/21(月)
経済を立て直し、テロ組織センデロルミノソを壊滅したフジモリ大統領
だが、いかんせん南米はアメリカの植民地。南米には日本も中国も近寄るなってのがあの国の意向、だからつぶされた
しかし、この女性がんばるなあ、順当に大統領になれそうだ。
2016/03/21(月)
アメリカでは特にだけど、日系人の歴史は人種差別との闘い。
フジモリ氏も日系人でなければ、あんな事にはならなかっただろう。
■ペルーの藤森の時もそうだったが、アメリカの庭で活躍しようとする日本人を異常に警戒するね 。労働者として質はいいから歓迎されるが、そこの国力上げそうな要職についたとたん足を引っ張り失脚させる。
ブラジルアルゼンチンは当時アメリカの要求を突っぱねる国力があったから大戦中日系人引き渡しやらなかったけどペルー、メキシコはあかんかった。
2017/04/21
--ここまで--
*追記
深田祐介さんの「激震東洋事情」という本に、フジモリ氏のことが書かれてあったのでご紹介したい。
--ここから--
私はペルーに行くまで、どうしてアルベルト・フジモリ氏が大統領に選ばれたのか、
その理由がよく分からなかった。
人口二三〇〇万のペルーにおいて、日系人はわずか八万人、人口比率にして〇・三%前後にすぎない。
その日系人の男が何がゆえに大統領に選出されたのであるか。
人口比率の意味からいえば、在日朝鮮半島出身者が日本の首相になるようなものであって、どうにも理解し難かった。
おまけにこの八万人が全員フジモリ氏を支持したか、といえば、ほとんどが支持しなかったらしい空気がある。
第二次世界大戦において、ペルーは中南米で最初に日本に宣戦布告した国であって、そのためにペルーの日本人移民は財産をすべて収奪され、米国の収容所に送られた。
もしフジモリ氏を支持するような、出過ぎた真似をすれば、またこうした日系排除の発想を生みだすのではないか、という理由なくして奇怪な恐怖感が日系社会にみなぎり、ほとんどが対立候補のヴァルガス・リョサに投票したらしい。
現にフジモリ元夫人の実家がそうであり、日系社会の長老たちが同じ立場をとったと伝聞する。
しかしフジモリ氏のフランス、ストラスブール大学留学時代(一九六四年)の学友、岸田秀氏は、フジモリ氏について、二点、強い印象を抱いている。
一つは、フジモリ氏の明治維新に対する異常なほどの関心と、もう一つは、インディオに対する深い共感の念であった。
明治維新については、「なぜあれほどの変革がほとんど流血なく成功したのであるか」ということが中心だったが、インディオについては「正直でおとなしいので、いいようにされている」と、ペルーのインディオが置かれている状況を再三にわたって嘆き、同情の念しきりであった、という。
ここで私ははしなくも、太平洋の彼方の島の元首、李登輝氏のことを思い合わせた。
アルベルト・フジモリ氏もラ・モリーナ国立農科大学を卒業、のちにこの農科大学学長に就任する農業専門家である。
フジモリ氏は記憶力抜群、人と会うとすぐメモを取るきまじめさがある。
なによりの共通性は二人がよく米国で言われる「イェロウ・バナナ」ではない、ということだろう。
「イェロウ・バナナ」とは、見かけは黄色人種だが、中身、つまり精神性は白人化、米国化している人物のことだ。
アルペルト・フジモリ氏もまた、「私は日本の文化的遺産を受け継いでいる」と言い、妹ロサは「兄にはコンジョウがある。何かに向けて自分を捧げ、邁進する日本的精神の持ち主」と語っている。
二人に共通するのは「志をいかに達成するか」という明治人の気概を備えているということだろう。断じて中身の白いイェロウ・バナナではないのである。
「フジモリさんは、熊本出身のご両親の家庭で育ったが、母上はスペイン語ができず、日本語、それも熊本弁しかお話しにならない。だからフジモリ大統領は日本語は八〇%理解される。にもかかわらず、公式の席上でスペイン語を使われるのは、公式の席で、熊本弁でお話しになるわけにもゆかんからでしょう」(ペルー駐在の長い某氏)
実際、フジモリ氏は一九七一年、父親藤森直一氏の死の際にも、熊本の母方の実家、井元家に滞在していた。一夜、フジモリ氏は白い服を着ている父親の夢を見、翌朝、父親死亡の通知に接した。
父親は母親と同じ熊本の出身、農園の綿つみ労働者から苦労して夕イヤ修理工場を経営するに至るが、第二次大戦による収奪ですべてを失い、戦後は金物屋、花屋などで生計を立て、五人の子供を育てた。
「だから、日本の、小柄で、しばらく刑務所に入っていた国会議員が、フジモリ大統領が日本語が分かるのを知らなくてね、大統領の面前で。要するにこの男、金が欲しいんだろ”と日本語で言ったとたんに、大統領が憤然として席を立った、というエピソードが当地にも伝わっています」(同)
フジモリ支持の原点
そしてフジモリ氏のインディオ(これは蔑称。現地では山の人という言い方をする)に対する共感は、私も現地に行ってみて、初めて理解した。
ペルー国民の五割は貧民といわれるが、それは要するにペルーの貧民はインディオということを意味する。
コロンブスが渡来して五〇〇年になるが、インカ帝国は滅ぼされ、インディオ、言いかえれば、南米に渡った蒙古族の惨憺たる人生が五世紀にわたって繰り広げられることになった。
リマの街を車に乗って走っていると、インディオの中年の男女が、果物やアメリカのタバコを売りにやって来る。彼らから、ふと眼を転じると、石の何かの記念碑の上に彼らの息子らしい幼児が寝かされているのだ。
「もしあの子が寝返りを打てば、記念碑から下の敷石の上に落ちて、大ケガをするのではないか」と、私は気が気でない想いにとらわれる。
この「気が気でない想い」「他人ごとと突き離せない想い」を、われわれはインディオに対して抱いてしまうのだ。日本人の物ごいに接すれば動揺する心情を、インディオに対してもまた抱いてしまうのである。この感情は、おそらくフジモリ大統領にしても、ごく当然に抱いた感情であろう、と思う。
これがフジモリ氏の心情の原点であり、インディオの人々もそれを理解したからこそ、今日の大統領、フジモリ氏があるのだ、とそのとき、私はペルーに行ってほとんど生理的に理解した。
私はよく「アジアは一つ」と言うのだが、その証拠として皆、米を育て、米を食べる稲作文化の共通性と、そして蒙古斑を挙げる。蒙古斑は赤ん坊の尻に出る青い斑点だが、欧米人には絶対といっていいくらい出ないのに対し、アジアでは中国からインドネシアに至るまで、百%近い率で赤ん坊のお尻に出現する。
それが現地で聞いてみると、インディオの場合も百%近くの赤ん坊にこの蒙古斑が出るというのである。また遺伝学的にも、インディオとアジア人の共通性が立証されつつある、といわれる。
この「他人ごと」でない感じをフジモリ氏も抱き、インディオも彼のこの心情を理解したからこそ、フジモリ大統領が誕生したのであろう。
ゲリラの跳梁する地帯に暮らすインディオの生活は大変だった。「軍隊が村にやってくると、ご彼らに飯を出さねばならない。センデロがやってきてもやはり飯を出さねばならない」「もしいっぽうが他方に飯を出したことを知れば殺される」「結局、夜は家にもいられず、木の茂る川岸に隠れるしかなかった」。そういう生活を彼らは送っていた。
フジモリ氏は「センデロ」の本拠地、アヤクーチョで選挙演説を行なったが、「フジモリを迎えるインディオたちの表情には救世主を希求するかのような感情の爆発があった」とされる。
「フジモリが到着すると空港の出口は大混乱となった。握手を求めるインディオが花束を渡そうとする女性たちの間に入って押し合いとなり、にぎやかな音楽を鳴らし始めた楽団を空港の塀に押しのけてしまった」 「インディオの習慣では、賓客には伝統の織物で作った飾りの衣装を贈り、仲間として受け入れる。それはインカの模様を編みこんだ色も多彩で派手な生地でできている。
(中略)フジモリがそれらを着け終ると群衆の反応は絶頂に達した。インディオ女性の嬌声が一段と高くなり、あたかもアイドルスターに声援をおくるかのような喧騒になった。フジモリにはこの衣装がよく似合った。インディオたちはこのとき、フジモリを自分たちの仲間と思い込んだはずだ」
インディオはフジモリ氏を有色人種の代表と考えたのだ、とよく書かれるが、有色人種といっても、他の有色人種であってはこうまで熱狂的に受け入れられはすまい。
リマの街角の石の記念碑の上で眠る子供に私は胸が痛んだが、それと相通ずる心理的共感がインディオの側に生じたに違いない。
コロンブスが渡来し、インカが滅ぼされて五〇〇年、やっとインディオの「仲間」が登場したのである。
フジモリ氏はその後もアヤクーチョをしばしば訪ね、現地にテロリストに親を殺された子供たちのために孤児院を建てている。
フジモリ大統領の功績がじつに七〇〇〇%に及んだインフレを十数%にまで圧縮した経済政策と、そして徹底的な”戦争”をテロリストに対して挑んだ点にあるのは新聞記事などで周知のとおりである。テロリストに買収される裁判官を全面的に追放、看守と癒着して刑務所にライフル、カラーテレビを持ち込み、女と密会を続けたテロリストたちと激しい射撃戦を演じて、刑務所の規律を回復したのである。
--ここまで--
*追記
深田祐介さんの「激震東洋事情」という本に、フジモリ氏のことが書かれてあったのでご紹介したい。
--ここから--
私はペルーに行くまで、どうしてアルベルト・フジモリ氏が大統領に選ばれたのか、
その理由がよく分からなかった。
人口二三〇〇万のペルーにおいて、日系人はわずか八万人、人口比率にして〇・三%前後にすぎない。
その日系人の男が何がゆえに大統領に選出されたのであるか。
人口比率の意味からいえば、在日朝鮮半島出身者が日本の首相になるようなものであって、どうにも理解し難かった。
おまけにこの八万人が全員フジモリ氏を支持したか、といえば、ほとんどが支持しなかったらしい空気がある。
第二次世界大戦において、ペルーは中南米で最初に日本に宣戦布告した国であって、そのためにペルーの日本人移民は財産をすべて収奪され、米国の収容所に送られた。
もしフジモリ氏を支持するような、出過ぎた真似をすれば、またこうした日系排除の発想を生みだすのではないか、という理由なくして奇怪な恐怖感が日系社会にみなぎり、ほとんどが対立候補のヴァルガス・リョサに投票したらしい。
現にフジモリ元夫人の実家がそうであり、日系社会の長老たちが同じ立場をとったと伝聞する。
しかしフジモリ氏のフランス、ストラスブール大学留学時代(一九六四年)の学友、岸田秀氏は、フジモリ氏について、二点、強い印象を抱いている。
一つは、フジモリ氏の明治維新に対する異常なほどの関心と、もう一つは、インディオに対する深い共感の念であった。
明治維新については、「なぜあれほどの変革がほとんど流血なく成功したのであるか」ということが中心だったが、インディオについては「正直でおとなしいので、いいようにされている」と、ペルーのインディオが置かれている状況を再三にわたって嘆き、同情の念しきりであった、という。
ここで私ははしなくも、太平洋の彼方の島の元首、李登輝氏のことを思い合わせた。
アルベルト・フジモリ氏もラ・モリーナ国立農科大学を卒業、のちにこの農科大学学長に就任する農業専門家である。
フジモリ氏は記憶力抜群、人と会うとすぐメモを取るきまじめさがある。
なによりの共通性は二人がよく米国で言われる「イェロウ・バナナ」ではない、ということだろう。
「イェロウ・バナナ」とは、見かけは黄色人種だが、中身、つまり精神性は白人化、米国化している人物のことだ。
アルペルト・フジモリ氏もまた、「私は日本の文化的遺産を受け継いでいる」と言い、妹ロサは「兄にはコンジョウがある。何かに向けて自分を捧げ、邁進する日本的精神の持ち主」と語っている。
二人に共通するのは「志をいかに達成するか」という明治人の気概を備えているということだろう。断じて中身の白いイェロウ・バナナではないのである。
「フジモリさんは、熊本出身のご両親の家庭で育ったが、母上はスペイン語ができず、日本語、それも熊本弁しかお話しにならない。だからフジモリ大統領は日本語は八〇%理解される。にもかかわらず、公式の席上でスペイン語を使われるのは、公式の席で、熊本弁でお話しになるわけにもゆかんからでしょう」(ペルー駐在の長い某氏)
実際、フジモリ氏は一九七一年、父親藤森直一氏の死の際にも、熊本の母方の実家、井元家に滞在していた。一夜、フジモリ氏は白い服を着ている父親の夢を見、翌朝、父親死亡の通知に接した。
父親は母親と同じ熊本の出身、農園の綿つみ労働者から苦労して夕イヤ修理工場を経営するに至るが、第二次大戦による収奪ですべてを失い、戦後は金物屋、花屋などで生計を立て、五人の子供を育てた。
「だから、日本の、小柄で、しばらく刑務所に入っていた国会議員が、フジモリ大統領が日本語が分かるのを知らなくてね、大統領の面前で。要するにこの男、金が欲しいんだろ”と日本語で言ったとたんに、大統領が憤然として席を立った、というエピソードが当地にも伝わっています」(同)
フジモリ支持の原点
そしてフジモリ氏のインディオ(これは蔑称。現地では山の人という言い方をする)に対する共感は、私も現地に行ってみて、初めて理解した。
ペルー国民の五割は貧民といわれるが、それは要するにペルーの貧民はインディオということを意味する。
コロンブスが渡来して五〇〇年になるが、インカ帝国は滅ぼされ、インディオ、言いかえれば、南米に渡った蒙古族の惨憺たる人生が五世紀にわたって繰り広げられることになった。
リマの街を車に乗って走っていると、インディオの中年の男女が、果物やアメリカのタバコを売りにやって来る。彼らから、ふと眼を転じると、石の何かの記念碑の上に彼らの息子らしい幼児が寝かされているのだ。
「もしあの子が寝返りを打てば、記念碑から下の敷石の上に落ちて、大ケガをするのではないか」と、私は気が気でない想いにとらわれる。
この「気が気でない想い」「他人ごとと突き離せない想い」を、われわれはインディオに対して抱いてしまうのだ。日本人の物ごいに接すれば動揺する心情を、インディオに対してもまた抱いてしまうのである。この感情は、おそらくフジモリ大統領にしても、ごく当然に抱いた感情であろう、と思う。
これがフジモリ氏の心情の原点であり、インディオの人々もそれを理解したからこそ、今日の大統領、フジモリ氏があるのだ、とそのとき、私はペルーに行ってほとんど生理的に理解した。
私はよく「アジアは一つ」と言うのだが、その証拠として皆、米を育て、米を食べる稲作文化の共通性と、そして蒙古斑を挙げる。蒙古斑は赤ん坊の尻に出る青い斑点だが、欧米人には絶対といっていいくらい出ないのに対し、アジアでは中国からインドネシアに至るまで、百%近い率で赤ん坊のお尻に出現する。
それが現地で聞いてみると、インディオの場合も百%近くの赤ん坊にこの蒙古斑が出るというのである。また遺伝学的にも、インディオとアジア人の共通性が立証されつつある、といわれる。
この「他人ごと」でない感じをフジモリ氏も抱き、インディオも彼のこの心情を理解したからこそ、フジモリ大統領が誕生したのであろう。
ゲリラの跳梁する地帯に暮らすインディオの生活は大変だった。「軍隊が村にやってくると、ご彼らに飯を出さねばならない。センデロがやってきてもやはり飯を出さねばならない」「もしいっぽうが他方に飯を出したことを知れば殺される」「結局、夜は家にもいられず、木の茂る川岸に隠れるしかなかった」。そういう生活を彼らは送っていた。
フジモリ氏は「センデロ」の本拠地、アヤクーチョで選挙演説を行なったが、「フジモリを迎えるインディオたちの表情には救世主を希求するかのような感情の爆発があった」とされる。
「フジモリが到着すると空港の出口は大混乱となった。握手を求めるインディオが花束を渡そうとする女性たちの間に入って押し合いとなり、にぎやかな音楽を鳴らし始めた楽団を空港の塀に押しのけてしまった」 「インディオの習慣では、賓客には伝統の織物で作った飾りの衣装を贈り、仲間として受け入れる。それはインカの模様を編みこんだ色も多彩で派手な生地でできている。
(中略)フジモリがそれらを着け終ると群衆の反応は絶頂に達した。インディオ女性の嬌声が一段と高くなり、あたかもアイドルスターに声援をおくるかのような喧騒になった。フジモリにはこの衣装がよく似合った。インディオたちはこのとき、フジモリを自分たちの仲間と思い込んだはずだ」
インディオはフジモリ氏を有色人種の代表と考えたのだ、とよく書かれるが、有色人種といっても、他の有色人種であってはこうまで熱狂的に受け入れられはすまい。
リマの街角の石の記念碑の上で眠る子供に私は胸が痛んだが、それと相通ずる心理的共感がインディオの側に生じたに違いない。
コロンブスが渡来し、インカが滅ぼされて五〇〇年、やっとインディオの「仲間」が登場したのである。
フジモリ氏はその後もアヤクーチョをしばしば訪ね、現地にテロリストに親を殺された子供たちのために孤児院を建てている。
フジモリ大統領の功績がじつに七〇〇〇%に及んだインフレを十数%にまで圧縮した経済政策と、そして徹底的な”戦争”をテロリストに対して挑んだ点にあるのは新聞記事などで周知のとおりである。テロリストに買収される裁判官を全面的に追放、看守と癒着して刑務所にライフル、カラーテレビを持ち込み、女と密会を続けたテロリストたちと激しい射撃戦を演じて、刑務所の規律を回復したのである。