2018年5月3日木曜日

中国製が日本製にかなわない理由。中国人は肉体労働を卑しむためだ


どうも、中国人って、自分達を直視できないのだな。
 まぁ、直視もできないほどの惨めな歴史をもっているが故か。

 表題に戻れば、核心は、一般の人々が、アイツ科挙にも合格できないようなアホだから、肉体労働をしていのだ—と肉体労働者を低くみているからだろう。
 そんな視線にさらされる労働者に、向上しようとする意欲が湧いてくる訳がないじゃないか。
 いい製品を作ろうなんて思う訳がないじゃないか。

 そんな分かりきったことを中国人っていうメンツばかり気にする人間は直視できない。
 精神的に弱い民族なのだな。
 哀(かな)しい哀(かな)しい民族ではある。

 以下、新聞から抜粋。

 中国メディア・今日頭条は4月29日、「中国製はどうして日本にかなわないのか ユニクロ1つ見ただけで分かる」とする記事を掲載。
 記事は「今や世界の範囲でメイド・イン・チャイナの文字を見ることができる。一方、多くの人がかつての製造業帝国・日本について徐々に没落していると認識している。しかし、事実はそんなことはない。製造業において、わが国と日本との間にまだまだ大きな差があるのだ」とした。

 そして、「新興市場の急速な台頭と技術移転に伴い、日本の製造業は確かに少なからぬダメージを受けた。
 しかし、明治維新から長時間かけて発展してきた日本の製造業は、充実した製造体系と他国を超越する理念を持っている。
 製造業従事者は日本で高い社会的地位とともに、強い使命感を持っているのである。彼らは量より質を重んじており、細かい部分に非常にこだわる」とした。
 また、「日本の十数人規模の小工場が、わが国の数百人規模の大工場に比肩する力を持つ。なぜなら、日本の企業は核心技術を有しているからだ。日本の企業は、例えばユニクロに衣服の生地を提供すると同時に、ボーイングに炭素繊維の複合材料を提供することができるのだ」と論じている。

 記事によれば、中国人には「自分が従事している職業に対する排斥感」があるとのこと。
 大部分の人が自分の子どもに自分と同じ職業に就かせたがらないため、中国の製造業は往々にして世代交代がうまくいかないのだという。
 記事はさらに「日本は古き良きものをしっかりと守ってきたが、中国人はとにかく新しもの好きであり、伝統的な工芸技術が歴史の大河の中に埋もれてしまっている」とした。
 そのうえで、「わが国の製造業が日本との差を縮めつつあるのも事実。
 初心を忘れることなく前進し、未来の世界の製造業において独自のポジションを持つようになることを願っている」と結んでいる。

補足、感想など

 ふ~ん。
 「自分が従事している職業に対する排斥感だとさ。
 違うだろう。
 他者から低く・卑しく見られている職業を続けたくないだけであろう。
 この感覚が中国人にある限り、絶対に中国製は日本製にはかなわない。

 ニッサンのエンジンを組み立てる工程は、数人の選ばれた工員が組み立てる。そして、組み立てたエンジンには、その工員の個人名の入ったエンブレムを貼り付けできるのだ。
 誇りと責任をそのエンブレムは、ものがたっている。

 こういう職人の誇りについては、歴史がある。
 戦国時代末期、織田信長は優れた技をもつ職人達に対して、「天下一」と称することを認めた。
 ちょいと、文章をみようか。

 --ここから--

 「天下一の号を取る者、何れの道にても大切なる事なり。ただし、京中の諸名人として内評議うちひょうぎありて相定あいさだむるべき事」(『当代記』)
 「天下一」の称号を得ることはどんな道でも大切なことである。
 ただし、これを決定するには京都の名人たちが集まり、公平に評議して決定しなければならない、という意味であり、織田信長はこの定書さだめがきを京都奉行・村井貞勝に宛てに送った。

 元亀4年(1573)7月のことである。
 岐阜城天守。永禄10(1567)信長は美濃国を手に入れ天下統一をめざした。
 この時期の信長は、勢力がようやく畿内に行きわたり、京の町の地子銭じしせん(固定資産税)を免除するなどして、より一層深く民衆の気持ちをつかんで大きな支持を得たいと考えていた。
 そして、冒頭の定書は京都中の職人たちを奮い立たせ、励ますことになった。

 具体例をあげると、鐘、釜、畳、茶器などの制作に秀れた者が輩出した。
 「京都(武野たけの紹鴎じょうおう)時代に京都天下一西村道仁にしむらどうじん、名越善正なごえよしまさなり。道仁は信長公<御釜師おんかまし、わが家の元祖なり・・。」(『釜師由諸書』)
 「京之天下一、太郎五郎」(『津田宗及そうぎゅう茶湯日記』)
 「その方、畳刺たたみさし天下一として、信長御朱印なされ、諸公事しょくじ御免許の上は・・」(『玄以法印下知状』)
 畳刺(たたみさし)の天下一で代・石見いわみ(伊阿弥)新四郎宗珍そうちんは信長が上洛したとき内裏修造に際して畳大工の御用をつとめたのをはじめ、安土城の大・中・小書院の広間の畳の製造を請負って名をあげた。

 要するに信長はフェアな競争で技能を競うという自由を社会に与え、それまで重視されていた門閥や誰彼を問わず、力のある者を抜擢しようとしたということであった。
 京都に旗を立てて日本を統治するために、多くの武将が全知全能を傾けた。
 それは、名将中の名将のなかから、ただ一人だけが勝ち残る苛酷なサバイバル・レースであり、誰もが多大な必要経費と犠牲を払う命がけの戦いであった。
 そうした厳しい戦いを戦い抜くために、先頭を走っていた信長にとって、どの分野に限らず天下で最も秀れた者が誰なのかは大きな問題であり、なおざりにはできない問題であった。

 持ち前の好奇心もあったろうが、信長はこの「誰が最高なのか」という問題を職人の世界に適用したということで、その技能を競わせ、自由競争させることによって「天下一」の称号を与え、ひいては実力主義と自由競争が導入された結果、技術の大きな発展を促進する成果をあげて日本経済が活性化され、成長したのである。

 --ここまで--

 16世紀半ばのことだ。
 つまり、日本の職人達の「己の技に対する誇り」というものは、これだけの歴史をもっているのだ。
 文章では茶器の製造などとなっているが、もっと幅ひろいものだったようだ。
 壁塗りとか傘をつくるとかもう様々なことで「天下一」を称したという。

 対して。
 中国人の職人を見る目が、「アイツ、科挙にも合格しないようなアホだから、肉体労働をしているのだ」てな蔑視と、どれだけの「差」があるかが理解できるであろう。
 これだけの「格差」が一朝一夕に埋めることができると思うか。

 もう、数十年、もしかして百年くらい掛かるのではないのかな。日本の職人の感覚に達するのは。