▲日本のアニメを作った人—と言って過言ではあるまい。
今年の春、82才でなくなった。
その記事から抜粋。
アルプスの少女ハイジ」 「火垂るの墓」などで知られ、4月5日に82歳で死去したアニメーション映画監督、高畑勲さんのお別れの会が15日、東京・三鷹市の三鷹の森ジブリ美術館で行われた。
親交のあった山田洋次監督や落語家の柳家小三治さんら関係者やファンが別れを惜しんだ。
「お別れの会」委員長をつとめた盟友、宮崎駿監督は高畑さんの死後、初めて公の場であいさつ。
共に20代だったころ雨上がりのバス停で初めて出会い、苦難を乗り越え完成させた高畑さんの初監督作品「太陽の王子ホルスの大冒険」の思い出を振り返った。
「パクさん(高畑さんの愛称)の教養は圧倒的。僕は得難い人に巡り合えたのだとうれしかった」と声を詰まらせ、涙をぬぐった。
高畑さんの作品の音楽を長年担当した久石譲さんは 「音楽に造詣の深い人。無名だった僕を起用していただいた。今日(自分が)あるのは高畑さんのおかげ」と悼んだ。
▲補足、感想など
う~ん。
アニメ創成期の頃の「あぶない仕事」だという泥臭さがどうも、現在の日本のアニメの繁栄をみていると薄れてしまっている気がするな。
ガンダムを作った富野さんのコメントをみてみよう。
--ここから--
アニメ界を創世記から支えてきたアニメーション映画監督・富野由悠季。
自分自身が“生き延びるため”、オリジナルを手に入れるしかなかった。
アニメ業界に入った当時を「TVアニメの仕事というのは社会で最底辺といってもよい仕事でした」と振り返る富野氏。
フリーになって青色申告をする際、5、6万円の経費を認めてもらうのに一苦労するほどだったとのこと。
「僕は30歳を過ぎて子供がふたりいましたが、40、50の年齢を超えていけるのか、果たして60歳に辿り着けるのか不安でした。当時は出来高払いの仕事で、このままだと地獄だというのは目に見えていました」。
そんな時、高畑勲、宮崎駿といった質の違う人と出会えて、こんな人もいるのか!?
と衝撃を覚えたと述懐する。
「高畑さんは東京大学出身でアニメの仕事をやっていて、当時の環境からしたら本気?
と思いました。しかも、東大を出ている人がムキなって僕に『アルプスの少女ハイジ』の話をするわけです(笑)」。
それを見た時、職業としてアニメの仕事をやってもいいのかな、と思えたと同氏。
その頃、富野氏はいろんな現場の仕事をしていて、自分の居場所もなかった。
そんな時、日本サンライズという会社に虫プロから独立した人たちが集まってきており、「結局こういう場所でやるしかないだろう」と日本サンライズで働くことに。
当時、日本サンライズは新興会社のため、世界名作劇場のような割のいい仕事はとれない。
富野氏は「だから巨大ロボットものでやっていくしかありませんでした。それで、ロボットものの仕事をしながら、自分はこのまま50、60歳までやれるのか…。
だったら、自分のオリジナルアニメを手にいれるしかない!」と考えたようだ。
--ここまで--
富野監督の言葉から、当時の高畑さん、宮崎さんがどんな風であったかが想像がつく。
こんなところから出発しているのだ。
日本のアニメは。
ちょいと、アルプスの少女ハイジというアニメに関する書込みをみてみようか。
--ここから--
・30年くらい前のアニメージュに
現地でハイジは日本のアニメだと言っても誰も信じてくれなかった
って記事があったのを思い出した
・宮崎駿だけじゃなく、ガンダムの富野喜幸も
絵コンテとして関わってると知ったら 外人さんはどんな反応を示すのかな
・長期ドイツ勤務の日本人が同僚のドイツ人に
「日本のアニメも面白いがハイジのような誰からも愛される作品は作れないだろ」ってドヤ顔で自慢された話を思い出した
・バカ外人が多いな、おまえらの国にこのレベルのアニメが作れるわけがないだろ
宮崎、高畑、富野だぞ
・>■ 日本も山の多い国だ。だからスイスを描くのは容易かったんだろうな。 ドイツ
残念ながら違う。
ハイジは、日本アニメで現地のロケハンをやった初めての作品だったはず。
監督である高畑勲の功績だ。
そして、すべてのカットの画面構成を担当するっていう鬼畜な仕事をした宮崎駿の恐るべき力量も評価すべきだな。このコンビでやった作品は「日本製アニメ」じゃない。
どこの国に出しても恥ずかしくない純粋な「アニメ」になってるところが本当に凄い。
日本製アニメと思われてないのって、実はスゲー偉大だと思うわ。
--ここまで--
ついでと言ってはなんだが、ガンダムの富野監督と宮崎監督のアレコレを、富野監督の口から聞いてみよう。
--ここから--
“映画好き”というだけで映画を作らせちゃいけないと、なぜわからないのか。というようなことを思っています。なぜこんなことを言うかというと、自分の作る映画がヒットしないからで、負け犬が吠えているだけです(笑)。
僕は、宮崎さんにバカにされたことがある立場の人間
――富野監督は、宮崎駿監督と同じ1941年生まれの同世代です。宮崎監督は先日、監督復帰を宣言されていますが、同じアニメ監督として意識される点はありますか?
富野由悠季 同世代だから意識はします。かつて一緒に仕事をしたこともありますし、バカにされたこともある立場の人間ですから、嫌でも意識はします。
――バカにされた、とはどのようなことなのでしょうか。
富野由悠季 これは説明できない部分でもあります。「そこを言ってくるか」という見識、知識の問題です。宮崎監督と自分を比べると、その点では歯が立たちません。
さっきから僕が言っている「メカが好き、ロボットが好き、だけでロボットものが作れると思うなよ」と強調しているのは、言ってしまえば、宮崎監督が僕に言ってくれたことなんです。
何を言われたかと言うと、「富野くん、それ読んでないの?」その一言。
宮崎監督が聞かれたのは“堀田善衞“氏の著書で、知らない本ではなかったから、本当は反論したかったけど言葉が出てこなかったんです。
家の本棚にはその本があって、半月前に半分くらい読んだ本でした。
宮崎監督は大学時代から堀田善衛氏の本を読んでいて、アニメ作家になってからはその人とも付き合いがあったようです。
そういう意味で学識の幅とか、深みが圧倒的に違う、僕では競争相手にならないと思いました。
――1974年に放送されたTVアニメ『アルプスの少女ハイジ』ではいっしょに仕事をされています。宮崎監督の仕事ぶりというのは?
富野由悠季 当時、『ハイジ』であれば5日もらえれば1本の絵コンテを書いてみせる、という早書きの自信がありました。僕は虫プロ時代(アニメ制作スタジオ『虫プロダクション』)に手塚治虫先生の早書きも見ていますが、手塚先生と宮崎監督の動画はちょっと違います。
宮崎監督はTVサイズに合わせたものを描く。それに比べて、あくまで手塚先生はアニメに憧れているディズニー好き、という印象でした。
ただアニメではそうだけど、手塚先生は漫画家、ストーリーテラー、アイデアマンとしてだったら誰にも負けないでしょう。
宮崎監督より3倍くらい上かも知れません。そんな2人の早書きを見ていたら、僕なんか歯が立たないとわかってしまいます。
――手塚治虫、宮崎駿という二人の凄みとは?
富野由悠季 手塚・宮崎のような作り手をそばで見ていると、ひとつの目線だけでアニメを作れるとは思えなくなります。宮崎監督は『紅の豚』が作れるから『風立ちぬ』も作れるんです。
どういうことかというと、メカのディテールはもちろん物語の描き方も熟練しています。
だから、『風立ちぬ』みたいな巧妙な作劇ができるんです。
僕からすると、あの作品はアニメという枠を超えた“映画”なんです。
最近でいうと、片渕須直監督の『この世界の片隅に』が、アニメではなく“映画“であると言えます。 その凄さを理解したうえで、僕はこの年齢になっても巨大ロボットもので“作劇のある映画”を作りたいと思っているわけです。
自分自身が“生き延びるため”、オリジナルを手に入れるしかなかった
--ここまで--
富野監督の口から、高畑監督・宮崎監督の話を聞くと、その凄さが分かるな。