2016年10月12日水曜日

九州に邪馬台国があったというのには無理がある—か。

ユーラシア大陸というものを考えるとき、紀元前であれば地中海周辺にローマ帝国というものがあった。
 中国はユーラシア大陸の東端にあり、西にあるローマ帝国等からの情報が最先端であった。
 ローマ帝国と中国とを結ぶ情報ルートがシルクロードである。

 中国の唐代の首都が長安という内陸部にあったのは、シルクロードこそが最新の情報が入手できるためだ。
 紀元前、秦の始皇帝が始めて中国の版図で統一できたのも、秦という小国が中国の版図の中で、もっとも西部に位置していたからだ—という説がある。

 ユーラシア大陸から、更に東にあり海に入った島国である日本においても事情は同じであろう。
 最初に鉄器を取り入れたのは、九州の北部地域であろう。
 鉄の鏃(やじり)で矢を撃つからこそ、最強の兵隊をもつことができ、強いから領土を拡大できた—と考えるのが真っ当ではあるまいか。

 邪馬台国というものが、後で天皇家につながるとするならば、まず、九州の北部に国があり、その後、近畿地方へ移ったと考えるのが妥当な想定であろう。

 以下、新聞から抜粋。

 吉野ケ里歴史公園(吉野ケ里町)で、記念フォーラム「歴史バトル『邪馬台国はどこだ?』」があった。同公園と明日香村の県立万葉文化館の会場をインターネット中継し、九州説派と近畿説派が持論を展開した。

 吉野ケ里歴史公園で開催中の企画展「よみがえる邪馬台国 邪馬台国と謎の国『不弥国』」に合わせてフォーラムを企画。会場には考古学ファンが詰め掛けた。
 吉野ケ里歴史公園の会場には、九州説を唱える佐賀女子短大の高島名誉教授ら研究者が登壇。奈良県側は近畿説を推す香芝市二上山博物館の石野名誉館長らが参加。

 両派は主張を一歩も譲らず討論を展開。
 九州派は「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の特徴が吉野ケ里遺跡の建物跡の配置と酷似していることを指摘。
 近畿派は出土した卑弥呼の時代の鏡のほとんどが近畿地方で見つかっている点を強調し「九州に邪馬台国があったというのは無理がある」と主張。

 参加者たちは、資料を手に熱心にメモを取り、古代のロマンに胸をときめかせた。【松尾雅也】

 奈良県の香芝市二上山博物館の石野博信名誉館長は、纒向(まきむく)遺跡に配置された大型の構造物や水路の遺構を根拠に「発達した文化の証しで、都市の造成が始まった」と畿内説を主張。
 遺跡から発掘した土器のうち、九州や関東などの土器が15~30%混じっている点を踏まえ「他地域との交流が特に盛んだった」と述べ、邪馬台国が連合国家の中心だったと説明した。

 吉野ケ里遺跡の発掘を主導した高島氏は、政治的影響力が強い大陸に近い北部九州に邪馬台国を中心にした勢力が存在したと主張。
 高島氏は「魏志倭人伝が記す卑弥呼の館の特徴は、吉野ケ里遺跡の遺構や遺物と符合する点が多い」と強調。
 同時代に中国の権力者が贈ったとされる鉄製の鏡が大分県日田市で見つかったことから、「中国の皇帝が卑弥呼に贈ったと考えるのが自然だ」と。

補足、感想など

 筆者の推論は冒頭でふれたように、鉄が一番先に入ったところが、強国となるはず—ということだ。
 だから。
 九州を飛ばして、近畿地方に強国ができる訳がない。

 九州北部のどこかに、鉄の鏃(やじり)をもった国ができあがり、それが強国となっていったのだ。
 やがて、九州で大きな部族となり、そこから、近畿地方へ言わば鉄の鏃をもっていない矢(たぶん、青銅のやじりだろう)で争う遅れた野蛮人達を征服しにいったのだ。
 これが東征であろう。
 <ついでのことながら、鉄のやじりと青銅のやじりの違いで、九州にあったろう邪馬台国が強かったのか—てな疑問があるかもしれない。でも13世紀、モンゴル人がユーラシアであれだけの版図を獲得できたのは、モンゴル人の矢が他の民族より数百メートル遠くまで飛ばすことができた--という点が決定的だったのだ>
 ほんのちょいとの「違い」が、古代では決定的な要因となるのだ。
 
 ユーラシア大陸の東部地域では、最も西側にいる人達が、最先端の情報を得ることができ、鉄の製品を入手することができたのだ。
 だから、九州を飛ばして、最初から近畿地方に大きな勢力をもつ部族国ができる訳がない。
 鉄の武器をもっていない国が強くなる訳があるまい。

 邪馬台国がどこにあったか—という論争は、もっと大きな視点から見直すべきではあるまいか。

★追記
 旧唐書(くとうじょ)に筆者の想像したようなことが書いてあった。
 筆者の浅学非才ぶりの恥ずかしいこと。

 --ここから--
 『旧唐書』くとうじょ
 倭国伝・日本伝

★倭国
 倭国はいにしえの倭奴国のことである。唐の都の長安を去ること1万4千里。新羅の東南の大海の中にある。
 倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。倭国の広さは東西は5か月の旅程で、南北は3か月の旅程であり、代々中国と通じていた。
 その国の町などには城郭が無く、木で柵を作り、家の屋根は草で葺いている。
 四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。
 倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。

★日本

 日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
 あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
 またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。

 --ここまで--
 どうやら、九州に「倭国」が、近畿に「日本」があるという意味のようだ。
 倭国から、近畿へ移った人達がいて(筆者が想像しているように鉄のやじりで、近畿地方の野蛮人を征服して)近畿地方に日本という部族国家を作って、この時点では併存しているという意味であろう。
 倭国の王の姓が、阿毎(あめ・あま)という記述は、アマテラスオオミカミ へ繋がっているのだろうな。