2016年10月3日月曜日

日本の稲作の朝鮮半島起源説

まぁ、韓国人のいうことって。
 稲作は、中国の揚子江付近から多分竹の筏に乗っかってきた人々が伝えたものだ。

 稲作の伝わった年代を日本では、縄文時代と弥生時代の境界と捉えているのだが、段々古くなっていくようだ。
 まぁ、紀元前300年~500年ぐらいを考えているようだ。

 そこで、韓国人学者が、韓国国内で紀元前500年より古い時代に稲作をしていたという証拠を提示して、韓国の方が稲作が先に始まり → 日本へ伝わったのだ—と言い始めたのが、下記の記事だ。

 以下、新聞から抜粋。

 日本よりも600年も早い炭化米を発見
 学界は興奮した。
 稲作の起源について、日本の学者の韓半島への伝播説が崩れたからだ。

 1970年代まで日本の学界は、福岡県板付遺跡で発見された炭化米の年代(紀元前34世紀)が、金海貝塚より古いという理由で、稲作が中国南部から日本列島を経て、韓半島に広まったという主張を展開していた。
 しかし、郡欣岩里の炭化米発見をきっかけに状況が逆転したのだ。
 これで世界の考古学の教科書の内容も変わった。

 イム・ヒョジェは稲作の黄海横断説を提起した。
 「中国の揚子江から、黄海を渡り、韓半島の中部地方へ稲作が入ったと見ます。以降、漢江に沿って広がり、日本列島に伝えられたのです」…

補足、感想など

 冒頭でもふれた。
 揚子江付近から竹の筏に乗った弥生人達が、東へ向かったとしても、どこに流されているか-見当もつくまい。

 九州に流れつく人もいただろうし、朝鮮半島へ流れついた人もいるだろう。
 紀元前、1000年頃の稲作の証拠だけで、朝鮮半島から → 日本へというのは、ちょいと強引だろうな。

 また、稲作の伝搬が 中国・揚子江付近 → 日本列島(九州付近) → 朝鮮半島 へだろうと推定される根拠は、年代だけではない。
 稲の遺伝子の種類の多さにもう一つの根拠が示されていた。

 そのあたりの文章をご紹介しよう。

 --ここから--

2007/1/28()

 米の伝来ルートについては支那南部から直接伝来したという説が定説だったが、考古学、歴史学の分野では朝鮮半島経由という考え方が有力だった。
 しかし、7,8年前から考古学の分野から変化が起き、次第に支那南部から直接伝来した説が有力になり、現在ではほぼすべての学界で定説になった。
 また支那の稲作研究界ではむしろ水稲種は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっている。

 この流れが加速したのは主に2つの理由がある。
 遺伝子工学の分野からの研究の成果、支那政府機関が20年以上かけて満州で行った品種の調査だ。この2つが決定打になり朝鮮半島経由で米が伝来した可能性がなくなった。

 米には品種特性を決定づける遺伝子が7種類ある。うち古代から現代に至るまで日本で発見された米の遺伝子は2つしかない。日本に存在する遺伝子をNO.1とNO.2とする。
 NO.1とNO.2の遺伝子はそれぞれ温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカという品種の特有遺伝子だ。

 稲作の発祥地である支那はもちろんNO.1からNO.7まですべて揃っている。
 朝鮮半島の米はNO.2からNO.7までの6種類が揃っているが、NO.1だけは存在しない。
 これは気温が低いと存在できない遺伝子のため支那北部より北では存在できないためだ。

 往来が盛んになるほど、多くの種類の遺伝子を持つ米が入る確率が高まるが、日本には2種類しかないのが確認されていて、これが稲作開始の初期から分布し、米の伝来はごく限られた回数で特定の地域から伝来したと考えられる。

 近年、炭素14年代測定法という年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かっている。日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡る。

 対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明。
 支那政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。

 また、支那南部の日本の米の起源と推定される地域は熱帯ジャポニカも温帯ジャポニカも同時に存在しているので、両者を1品種ずつ持ってきたと考えられる。
 往来回数が多くなると別遺伝子品種が紛れ込む可能性が高くなるので、古代人が遺伝子選別技術を持っていない限りはこの地域だけから流入したと考えるしかない。

 また朝鮮半島の米はNO.2の遺伝子が70%を占めるので、米が朝鮮半島に導入された初期段階でNO.2の遺伝子が多く伝わっていなければならない。
 日本から2種類の遺伝子を持った米が朝鮮半島に渡ったものの、NO.1の温帯ジャポニカ種は朝鮮半島に根付かずNO.2の遺伝子のみが広まり、そこに満州から米が入ってきて、NO.2の遺伝子を持つ米と交雑したと考えると朝鮮半島の米に遺伝子的な説明が付く。

 支那にはすべての遺伝子があるので、特定の種類の遺伝子だけを多くして朝鮮半島に伝えるのは無理。
 韓国の学者は学術的見地よりも感情が先に出ているので相手をしにくい。
 実際にBSEの研究会をイギリスで開催した際は韓国からは招待者なしという事態もあった。

 米の伝来は支那南部から日本へ来たものであることを説明したが伊勢神宮にはこれを裏付けるような伝承がある。
 「米は斉の御田から天照大神が持ってきた」というもので、現在の学界では日本の米は支那の山東省付近という説がもっとも有力だ。
 また、同地域にも一部部族が日本へ渡ったとする伝承がありこれを裏付けている。

 さらに台湾の学者が鵜飼に着目した研究をしているのだが、これも日本への米の伝来が支那からであることを裏付けている。
 鵜飼の風習は支那の楚の国(湖南省と湖北省とその周辺)とその稲作文化圏である四川省、雲南省、広東省など中国南方の地方によく見られる。日本でも普通に見られる。

 ところが鵜飼は朝鮮半島では古来見られない。台湾や琉球文化圏でも鵜飼の習慣はない。
 このことは最初に米を日本へ持ってきたのが、支那南部の楚に起源を持つ人たちで経由なしで直接日本に伝来させたことを裏付けている。
 その人達が伝えた鵜飼が日本に広まったということだ。

 なお、日本の品種改良技術は奈良~鎌倉時代に飛躍的に伸びたが、飛鳥時代にも籾の選別技術等が確立しており、5世紀頃には単位収量がアジアでトップクラスになっている。
 日本が朝鮮を併合した時に朝鮮に日本の耕作技術が移出され、単位収量が併合前に比べて2.2倍という爆発的増加をみたが、これは灌漑設備の他、植物防疫、施肥法の伝授によるものだ。

 単位収量の増加は朝鮮における生活の安定をもたらし、食料計画の研究資料によると摂取カロリーが一日あたり併合前に比べて一人あたり400カロリー、摂取タンパク質量が一人あたり7グラムも増えた。栄養状態の大きな改善などにより併合後の朝鮮の人口は2倍以上に増加した。
 支那も朝鮮と同程度の収量であったことなどをみると日本の稲作技術は20世紀初頭のアジアでは飛び抜けてトップであったことが伺える。

 --ここまで--

 冒頭の韓国の学者の説など、ふっとばすような説明だと思える。
 稲作は、 中国南部 → 日本列島 → 朝鮮半島 と伝わったというのが、定説だ。