2014年3月2日日曜日

風立ちぬへのアメリカ人の感想。

宮崎監督の「風立ちぬ」がアメリカで公開されたようだ。
 映画をみてのアメリカ人の感想が掲示板にのっていた。

 感想を読みながら、筆者の感想との違いを考えていた。
 感覚の違いといえばそう。

 でも。
 宮崎さんは、アメリカ人を観客とは想定していない。
 日本人が分かるものを(日本人なら自分の思いが伝わるだろう)、自分の好きなアニメを作っただけなのだよ—という感じなのだろうな。
 宮崎さんは。

 以下、アメリカの掲示板から筆者の気になったものだけを転記。


※友達と見に行ったよ きれいだった。雲、風景、飛行機が特に美しかった。
 飛行機が飛ぶシーンは見ていてワクワクした。
 飛行機の製造や、夢を形にしようと頑張る姿は素晴らしい みんな見たほうがいいよ。

※東京国際映画祭で言ってたけど、この音響って全部人の手で作ったんだって。

※お客さんはみんな気に入ったみたいだったよ。

※映画を通して、イタリア人とのエピソード、あれは良かった

※「千と千尋の神隠し」以来の名作。
 戦争や死を乗り越えて、夢の力が勝利する素晴らしい話。

※カプローニの台詞「ピラミッドのある世界とない世界、どちらが好きかね?」が心に残った。
 近代のエンジニアリングが戦争の恐怖に用いられたジレンマを表している。

※この映画は映画館で見てよかった。
 絵もストーリーも素晴らしくて見終わったあと抜け殻みたいになった。

※不満なのは、戦争のための飛行機を作っていることに二郎が淡々としていること。
 自分の作った飛行機が殺人兵器として使われるということは気にしていないみたい。 
 そう忠告する人を二郎は無視するけどやっぱりおかしいよ。
 菜穂子との恋愛も余計だった気がするけど、これは殺人兵器を作ったけど二郎はいいやつだったということかな。

※実在の二郎は軍用に反対し続けた。
 ただ飛行機を作りたかっただけだって。
 宮崎は二郎の台詞で「ただ美しいものを作りたい」って言わせてるけど、二郎の天才的な飛行機デザインをフィーチャーしたかったんだろうな

※二郎を描いた世界は日本は間違っていたと読み取れるし、だからこそ自分の作った飛行機が戦争に使われることをもっと嫌がったと描いてほしかった

※映画の中ではあまり戦争の話は出てこない。
 恋愛と、飛行機への愛が印象に強かった。
 カプローニが出てくる夢のところは詩的で、含んだものが多かった。
 エンディングで流れた曲に、二郎の愛がよく描かれていたと思う。
 曲が流れた瞬間にこの映画は素晴らしい終わりを迎えた。

※昨日見たんだけど正直がっかり。
 何が言いたいのかわからないし二郎はマヌケ。
 今まで見た宮崎映画みたいにドキドキしなかった。前半はきれいでよかったけど。


▲補足、感想など

 どうも、アメリカ人には「風立ちぬ」は難解だったようだなぁ。
 それにしても。
 堀越さんの言ったという「美しいものを作れ」の意味がどうしても理解できないのだな。

 これは、「機能的に正しいものは自ずから『美』を獲得する」という「もの作りの真髄」に達した言葉だ。
 美しいものを作ろうと思って作れるものではない。
 そのもつ機能が正しいければ、自ずと美しくなるという話だ。例えば、日本刀のように、例えば戦艦大和のように。

 だから。
 「美しいものをつくれ」--という言葉をうすっぺらに使うな。

 また。
 三菱の堀越さんとか中島飛行機の糸川さん等は、1930年代~1940年代において、日本でもとびっきりの知能・知性の持ち主達なのだ。
 会話の内容も勿論、生活のスタイルも、当時の普通人より20年から30年は「進んでいた人達」なのだ。

 最後に、技術者を馬鹿にしたような文章・態度が気に入らない。
 曰く---自分の作った飛行機が殺人兵器として使われるということは気にしていない---と。
 戦闘機だから、すぐ落ちるものでもつくれ—とか言っているのか。
 それこそ、馬鹿馬鹿しい反応だ。

 そういえば、糸川さんがオーストラリアでこういう対応をされたとか書いていた。
 糸川さんは、中島飛行機で、隼とか鐘馗なんて戦闘機をつくっていたからだ。
 オーストラリア人記者に、「戦闘機を作って」どうたら—とか聞かれたらしい。

 対して、糸川さんは、「技術者なら、一番強い戦闘機を造るのが当たり前だ」--と答えたとか。
 筆者も同感だ。

 技術者というものは、「時代」というものと離れて暮らすことはできない。
 時代が要求するものから逃れることはできない。
 技術者なら、戦時中ならば、「世界で一番優れた戦闘機」を造ることを目標とするはず。

 戦後で、戦闘機というものが不要となれば、また、方向が変化する。
 だからといって、戦時中、すぐ落ちるような戦闘機をつくるべきだ—という理屈は、奇っ怪としか言いようがあるまい。

 まぁ、「技術者」というものを、ものをつくるということを理解できない人間ということだろうな。そして、そもそも、そんな理解しかできないような人間を「観客」として、宮崎さんは想定していない。