▲どのあたりから。
最近の野村さんの画像をみて、びっくりした。
これだけ衰えるとは---。
最近、奥様を亡くされた。その衝撃が大きいようだ。
まず、新聞の記事から抜粋。
野球評論家・野村克也氏が、
8日に虚血性心不全のため急逝した“サッチー”こと妻・野村沙知代さんとの30年余りの結婚生活を振り返った。
野村克也氏によると前妻の浮気が原因で別居中だった頃、中華料理店で沙知代さんと出会ったと。
前妻との離婚が成立しないまま同居を始め、
1973年には克則氏(元プロ野球選手)が誕生したが公になることはなかった。1977年に週刊誌が不倫スキャンダルとして、沙知代さんの存在を明らかにする。
「愛人が打順にまで口を挟んでいる」などの報道もあり、球団内部からも批判が相次いだ。
当時、南海ホークスの監督・選手を兼任するプレーイングマネージャーだった野村氏は窮地に立たされ、同年9月に解任された。
野球界に戻れなくとも沙知代さんを選んだ野村氏に、「何とかなるわよ」と彼女はまるで動じなかったという。その沙知代さんの言葉通り翌年、ロッテオリオンズに選手として移籍。
1979年からは西武ライオンズでプレーし、1980年に引退。
プロ野球解説者を経て1990年からはヤクルトスワローズ
、そして1999年から阪神タイガースで監督を務める。
その野村氏がヤクルトの監督を務めていた1996年、タレントとしても活躍していた沙知代さんが新進党公認候補として衆院選に立候補した(落選)。
その際、選挙公報などに「コロンビア大学留学」など虚偽の経歴を公表していたことが問題になる。
この「コロンビア大学留学」ついては野村氏自身も沙知代さんから聞いており、英語も堪能だったことから全く疑っていなかった。
彼女の学歴詐称が明らかになっても「嘘をついてでも、俺をゲットしたかったんだな」と捉え、世間やマスコミから沙知代さんが批判されても夫婦の絆が切れることは無かったそうだ。
そして2001年12月、法人税法違反(脱税)などの疑いで沙知代さんは東京地検特捜部に逮捕される。捜査員が自宅に踏み込んだが、野村氏は立ち尽くすだけであった。
また妻の逮捕により、翌シーズンの続投が決まっていた阪神の監督を辞任することとなる。
それでも「将来のため、僕のために金を残そうとしたんでしょう」と沙知代さんを庇った。
学歴詐称や脱税についても彼女からは何の説明も無かったというが、沙知代さんは勾留中の面会時に初めて「ごめんね」という謝罪の言葉を口にしたという。
だがすぐに「何とかなるわよ」と逆に野村氏が励まされ、またしてもその言葉通り、彼は2006年から東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任したのだ。
愛する妻を見送った今、野村氏は「男の弱さを痛感している」と辛そうだ。
帰宅した時は沙知代さんが居るだけで安心していたが、「もう叫んでも、何をしても居ない」と寂しそうに笑う。
そして最後に「(沙知代さんと)別れようと思ったことは一度も無い」「如何なることが起きようとも動じず、一生懸命僕に尽くしてくれました」と亡き妻を称えた。
▲補足、感想など
この沙知代夫人との親和性の強さはどこから来るのだろう。
野村さんは、戦争未亡人を母親にもつ、10円にも苦労したという人だ。
このあたりの苦労を含めて。
--ここから--
苦労は、「ただ苦労をするだけ」では何の値打ちもない
日本シリーズもたけなわ。選手たちは、まさにこの日のために1年間、戦ってきたはずだ。
もっと言えば、この日のために野球に打ち込んできたとも言える。
頂上決戦は一見、華やかだが、そこに至るまでの選手たちのプロセスはまさに十人十色だ。
日本シリーズを少し違った角度から観るために、野村克也元監督の本を紐解いた。
────私はこれまで「苦労」をキーワードにしながら、努力の大切さを事あるごとに語ってきた。
ただし誤解してほしくないことがある。それは苦労は、「ただ苦労をした」というだけでは何の値打ちもないということだ。
「俺は幼いころ、家が貧乏でこんなに苦労をしてきた」
「これからというときに左遷にあって、会社で大変な苦労をした」
「上司は私の苦労も理解せず、わかろうともしてくれない」
こうした苦労話を得々と話されたとしても、聞かされる側としては「それは大変でしたね」としか言いようがないだろう。同情はできるかもしれないが、そこから学べるものは何もない。
大切なのは「苦労をすること」ではない。
「苦労を経験したこと」をきっかけとして、そこから自分が何を感じ、どう考え、どんな行動を起こしたかが問われるのである。
私が楽天の監督時代、ルーキーの田中を何度も2軍に落とそうかどうか迷ったのも、苦労を経験させることによって、より深く感じ、考え、行動できる選手になってほしかったからだ。
「自分がどんなに苦労をしてきたか」、「どれほど不遇な人生を送ってきたか」といったことを強調するばかりで、不遇な状況から抜け出すための努力を怠っている人のことを、私たちは「苦労人」とは呼ばない。
野球選手の中でも、2軍生活が長かったために苦労人と呼ばれている選手がいる。
しかし彼らは下積みのときには「苦労している」ということを自ら意識することすらなく、コツコツと努力を続けていたはずである。
その結果努力が実を結び1軍で活躍できたときに、初めて周りの人が「あの人は苦労人だね」と認めてくれるのである。
逆にいくら2軍で不遇な選手生活を送っていたとしても、何の努力もしないままくすぶっている選手については、苦労人とは呼ばれない。
苦労は努力に昇華できてこそ初めて価値を持ち、周りからも認められるのである。
--ここまで--
また、捕手という役割をトコトン突き詰めた人でもある。
--ここから--
捕手は監督以上の仕事をやっている。
試合前から様々なデータを駆使して相手打者の分析をしているし、
一度試合に入ればそれを元に、打者の反応を観察・判断して実行に移す。
1球ごとに繰り返すこの作業によって、いかに「打ち取る」という答えに導いていくかが重要なのだ。
この投手なら何点に抑えられるかという仮想ゲームを頭でやり、実際の試合を組み立てていく。
捕手はいわば「脚本家」なのである。
現に捕手出身監督は、ことごとく日本一になり、連覇も果たしてきた。
<中略>
私は、捕手は「根拠のないサインだけは出してはいけない」と考えているし、どの球団でもそう教えてきた。
試合中も右目でボールを受けて左目で打者の反応を見ろ、漫然とサインを出しているようでは捕手失格だ、
理路整然と説明できるサインを出し、万が一それが打たれたなら仕方ない……そうやって考えに考えろと指導してきた。
--ここまで--
筆者は、昭和40年代、野村さんの全盛期の頃を知っている。
記事に書いてあるような、沙知代夫人のこともおぼろげに知っている。
で。
冒頭でふれた。
この沙知代夫人と野村さんの強固な親和性の背後になにがあるのだろう。
おそらく、野村さんと同じような境遇から出発していて、ともに戦後の暗い時代を経験し、世間の冷たい視線と果敢に戦いつづけ、「なんとかなるわよ」と言い続けてきた「戦友としての関係」を維持してきたからではあるまいか。
沙知代夫人のご冥福をお祈りしたい。