2016年4月25日月曜日

韓国は、賢い人ほど生きづらく、キジルシが大手をふって生きている社会だ。

韓国で、賢く生まれつくということの苦しさはあるまい。
 賢ければ賢いほどしんどいし苦しい。
 キジルシ達と背中合わせに生きていくことのしんどさはどうだ。

 まず、韓国の新聞から抜粋。

 熊本からニュースが飛び込んできた。地震が起こった後の話だ。
 「家族8人でおかゆ2杯の配給しか受け取っていないのに、再び列に並ぶ人がいなかった。
 ある被災者は『これだけでも食べることができるのは本当に感謝』と」

 「給水台の前で列が乱れると、『お先にどうぞ』と譲り合う。誰一人として先にもらおうとする人がいなかった」 「この混乱の中で恨み節一つ聞こえてこなかった」

 100人を超える集団がある同じ傾向を見せるというのは考えてみるべき。
 2011年に東日本大震災に対処する日本人の姿を観察した外国人教授は「お釈迦様の姿に匹敵する」と表現したが、 お釈迦様の姿は健在だった。
 うらやましいくらいだ。

 成熟した市民意識というのはこういう状態をいう。
 その根底には何かあるのだろうか。
 日本はプレートの上に建てられた国だ。
 地震や津波は、「人間にできることなど何もない」という判断を後世に伝える役目を果たしているのかもしれない。

 日本について研究する学者は「仏教と神道が融合し、武人に圧倒された日本の封建制以降の歴史を根拠に、『現世』や『現在』を重視する観点が生じた」と分析。
 多くの神社があるにもかかわらずだ。

 整理すると、「仕方ない」という考え方だ。
 恨みはむなしいこと。状況を変えることができなければ、今に忠実でなければならない。
 日本人は環境がつくり出した唯物論者だ。
 評判や和合が重要で、迷惑を掛ける人間は共同体から排斥される。
 「品格ある犠牲者」の根底には受容、放棄、虚無主義も交じっているだろう。

 次のような言葉が浮かんでくる。
 (韓国は)「互いにののしり合うのだけはいい加減やめてほしい」。韓国の現実と比較する中、自然とこんな言葉が出てきてしまう。

 災害現場では常に罵声が飛び交っている。
 政府に責任があると思えば「現政権は総辞職せよ」といとも簡単に登場する。

 どんな罪なのか明らかにする前に「罪人の首を早く打て」と飛び出す。
 ため、その罪が明らかにされることも少なく、改善は一層困難になる。
 韓国人の属性が最もよく表れている「なんとかしろ」という言葉は、なんだか妙な感覚を抱かせる。

 「助けてくれ」はどんな文化圏でも聞ける言葉だ、誰かに向かって「なんとかしろ」と叫ぶ文化圏は多くない。
 韓国で起こる災難のほとんどが「人災」が多いため、韓国人には態度が共同体に対して無礼だと思う気持ちもない。
 たいていの現象は、3次元の立体だ。
 両面性が存在している。慎重過ぎると活力に欠け、迫力があると混乱する。

 日本を知る人々は、日本はすごい国だが、国家の活力は韓国には及ばないという。
 日本人が自民党を圧倒的に支持するのも「集団的無気力」「集団的流れの認定」の象徴だ。
 逆らうことができなければ受け入れるようにだ。

 大規模な自然災害の記憶がない韓国は、人のすることは全て覆すことができると考える。
 日本人記者は、韓国の総選挙の結果をめぐり「日本人が自民党体制を認めるように、韓国でも同じような結果が出るものと思っていた」と。
 
 韓国人には取り返しのつかないことなどない。
 不可逆もあり得ない。仕方がないことも存在しない。それが横車を押して騒ぎを生み時には予測できない変化をつくり出す。

 「現実は心の持ち方によって変わってくる」という観念論者であると同時に、 「成せば成る」という朴正煕精神の末裔なのだ。

補足、感想など

 もう、なにを言っているやら—という記事だな。
 韓国という国で、賢いなんてなんの意味もない。賢く生まれるなんて、業苦そのものだ。

 アホもカシコも皆キジルシとなって騒ぎまくれば、世界を切り開くことができるさ—という感覚か。
 あぁ、米国で捏造慰安婦で騒いでいるのは、これらキジルシ至上主義ということか。

 ふ~ん、日本人にはなんの関係もないことだな。
 関わらない、教えない、助けない、どうでもいい国—それが韓国だ。