▲ふ~ん。
ならば、エベンキ族は、常識人なのか—と問い返そうか。
13世紀、モンゴル軍の朝鮮半島進出に伴い、シベリアの奥地から出てきた民族には、文化も文字もなにもなかった。
モンゴル軍が引き上げ、14世紀から20世紀までの李氏朝鮮という国は、エベンキ族のシベリアでの暮らしぶりをそのまま引き継いだ生活様式であった。
車もない、針もない—およそ、文化的な備品を作ることもできない民族であり、600年もシベリア奥地で狩猟・漁労生活をしていた頃そのままの生活ぶりであったということだ。
以下、新聞から抜粋。
キム・ホリム仁川大客員教授/コラムニスト
1935年、ギリシャの作家ニコス・カザンザキスは日本を訪問し書いた紀行文で日本を
「桜と大砲」と描写し、米国の学者ルース・ベネディクト教授は米国務部から
「日本はどんな国民なのか」という研究を受けて1946年‘菊と刀’という日本文化の枠組みを提示した。
西洋知識人の描く日本の姿は「桜と大砲」であり「菊と刀」という象徴で、外見と
内心が矛盾した二重の顔だ。
私たちはなぜ日本が植民地侵略の犯罪事実を認める道徳性と謝罪する勇気が無いのか、と疑問を提起してきた。
永く苦痛を加えた隣国にもかかわらず彼らは誰なのかを知っているのか。
ベネディクト教授は「菊と刀」で日本が起こした戦争の原因を階層構造拡散の視点から見た。
日本
は武士中心の階級制度を構築した階層制社会であった。
彼らは各国が互いに主権
を持つことになれば世界は無政府状態が続くと考えた。
従って日本は世界秩序安定のために指導者である自分たちが覇権国になって世界各国をつりあった位置を持つ階層化を達成することによって世界統一できるという主張した。
日本の幻想に対し被占領国家は同意しなかった。
それにもかかわらず、敗戦後まで日本は理想が拒否されることはないと考えた。
もう一つの事実は日本は恥を基調とする文化が形成された。
これは罪を基調とする文化と区別される。
良心の啓発を意志とする社会は罪の文化に属し、恥の文化は外面的強制力が優先される。
従って罪を犯した人は告白することによって荷物を下ろせるが、恥が強制力になる社会は誤りを告白しても気が楽にならない。彼らの悪行が世の中に知られない限り悩む必要がなくと。
従って恥の文化では神に対し告白する習慣がない。日本人の恥は義務と
義理をつくすことができなかった時の他人の批判に対する反応で、他人の前で拒否されたと信じる時、羞恥を感じる。
しかし、恥を感じるには批判に対する証拠がなければならない。
これは自らの非行を誰も知らずとも、罪を告白することで罪悪感が軽減される罪の文化とは異なる。
文化人類学的な接近で見る時、日本が戦争挑発の不道徳性について鈍感なだけでなく、植民地戦争中に行なわれた蛮行に対し文明国家に対し羞恥心を感じるだけだ。
証拠が明らかにならない限り悩む必要がないことが、事実を否認し歪曲する理由ではないか。
ロシアのことわざに「過去を忘れれば片方の目を失うことになるが、過去に執着すれば両方の目を
失うことになる」という言葉がある。
私たちが北朝鮮の核脅威と韓半島をめぐる覇権
競争の厳しい現実で安定と繁栄を守れるように賢く切り抜けて行くために耳を傾けなければならない言葉だろう。
しかし、彼らも一つの手には花、他の手には武器を差し出しながら善良な隣国にはなれないことを知るべき。
▲補足、感想など
なんだ、これは。
韓国人って、本当に無駄に賢いなぁ。
無駄に長い妄想だらけの文章を書いて、結局のところ、謝罪せよ、賠償せよ。お金おくれ、お金おくれ、お金おくれ—と喚(わめ)いているだけだ。
そもそも、1945年まで、今の韓国人って、日本人ではないか。
戦時の蛮行とかいうなら、今の韓国人だって、日本人としてサンザンあちこちで蛮行を重ねていた筈だ。
なにか、1945年まで、どこか太平洋の孤島に韓国人全員が逃れていたのか。
日本人に罪ありとするなら、当然、韓国人も有罪さ。
同じ有罪人どうしで、お前だけが有罪だとか言っているのか。
馬鹿馬鹿しい極みだ。
太平洋戦争とは、極東の虎である日本と産業革命組の虎であるアメリカとが、太平洋という舞台で全力で戦ったものだ。
日本はユーラシア大陸の東端からまだ海に入った島国であったし、鎖国政策をとっていたため、英国の産業革命に100年遅れた。
20世紀の前半では、その100年遅れなりの「民族としての意地と根性」を100年先行した産業革命組の諸国に見せつけなければならなかったのだ。
結局のところ、産業革命に100年遅れたということでの技術的な格差、富の蓄積の差が大きくて、惨めな敗戦となったものだ。
敗戦後、戦時の賠償などはすべて完了した。
今更、日本は他国から何を言われる筋合いもない。
特に、韓国なんていう、産業革命に500年も遅れようという超ノロマ民族から何かを言われる筋合いはない。
日本は、もう、謝罪も賠償もする対象はない。
既に、日本の次なる150年という新レジームに突入しているのだ。
そこはもう、産業革命組という先達の背中さえ見えない世界だ。
見本も手本もない、目標すらも定かには見えない薄闇の中、自分の眼と才覚だけを頼りにして、進んでいく。
振り返ってみれば、16世紀の後半、戦国時代の最末期から400年ぶりくらいに、日本人は、世界の最前線に立ったということでもある。
最前線に立った日本には、韓国なんていう超ノロマ民族なんて、足手まといにすぎない。
さらば、韓国。
日本にとって、関わらない、助けない、教えない、どうでもいい国—それが韓国だ。