▲中国人って、捏造・コケオドシ・人食い民族ではあるが、賢いのもいるのだなぁ、と感心した。
以下、中国人の文章から。
春が近づくにつれ、日本列島は今年も、1年で最も華やかな桜の開花シーズンを迎えた。
日本の古語で「桜の頃」は、「春の季節」を意味する。
日本人の心の中では、桜の花は春を代表するものであり、お花見は、春への賛美そのもの。
桜のシーズンが来ると、日本人は満開の状態からやがては散りゆく桜に酔いしれる。
また、数多くの外国人観光客も、春の到来とともにもたらされる耽美を味わうために、続々と日本を訪れる。
(文:叢雲峰。文匯報掲載)
〇皇室から一般庶民までこぞって狂喜
日本のお花見の起源は、奈良時代に始まった花祭花宴に遡る。
当時、日本の皇族は中国から伝わった梅を鑑賞する宴を催した。
平安時代になると、お花見の対象が梅から桜に変わり、大規模なお花見イベントが登場した。
日本の華道の始祖と言われている嵯峨天皇は、毎年春になると、「桜鑑賞の宴」を催し、それが伝統的な慣習となっていった。
その後、お花見の風習は、皇族から貴族・武士に広まり、江戸時代に日本経済の発達と庶民の生活レベルが向上するにつれて、お花見が貴族階層から庶民に伝わり、宮廷から民間まであらゆる階層の日本人にとって最大の楽しみとなった。
〇散り行く桜に対する潔さに感嘆
桜が昔から日本人に愛されてきたのは、春の訪れを告げる象徴であるだけでなく、あっという間に散ってしまう桜のはかなくも美しい生命と、その短い命が終わる時の静けさと潔さが日本人の心に響くからだ。
春の訪れを告げる桜の木は、昔から日本人の生活に身近な植物だった。
古代には、正確な温度観測データがなかったため、桜の開花は、農業で年に1度の種まきシーズンの訪れを告げるサインだった。
特に、何もかもが枯れ果てる長い冬を耐えてきた人々は、早く春が訪れて欲しいという期待を、桜の開花に託したのだ。
また、桜の木は、日本人が重んじる人生観と価値観を体現している。
桜の開花はごく短い。蕾が膨らみ、花が咲き、散るまで、せいぜい1週間から2週間で、花びら1枚1枚はとても小さいが、ほころび始めると全ての花びらが一斉に開く。
開花後は、あっというまに花びらが雪のように地面に舞い落ちる。
さながら生命が終わる瞬間のようで、渾身の力を振りしぼって有終の美を飾る。
日本人は、桜から、短い人生に対する虚無的なセンチメンタリズムを感じ、潔く散る美しさに感動する。
だが、それよりも、桜は、限りある生命の中で自分を最大限に生き抜く勇気という素晴らしい贈り物を、日本人に与えてくれる。
桜が一斉に開花して咲き誇り、また一斉に桜吹雪となって散ることも、日本人の強い団体意識とマッチしている。
もし山に1、2本しか桜がなければ、開花に対する思い入れもそれほど強くはならない。
だが、川の土手に植えられた桜が一斉に開花するシーンは壮観であり、見る人を感動させる。
〇「お花見」シーズンに現れる日本の「もう一つの顔」
「お花見」は法定休日ではないが、その熱狂ぶりは、全国的な祝日の祝典に決して劣らない。
お花見シーズンが来ると、日本全体が普段と異なる動きを見せる。
皇室と内閣総理大臣は、皇居のお庭で大規模な「春の園遊会」を開催し、各界で活躍した人々を招待、顕彰する。
また、一般企業は、半日休みや終業時刻を早めにして、各種飲料や軽食を従業員のために準備し、付近の公園で、ともにお酒を飲みながら桜を楽しむ。
勤め人以外の人々も、友達や家族とともに、お花見に出かける。
このようにこの時季になると、普段は物静かな日本人が突然騒ぎはじめるのだ。
都市部や田舎に関わらず、桜の木の下は、ありとあらゆる人で埋め尽くされる。
このような賑やかで騒々しい感覚は、日本と日本人のもう一つの顔といえるだろう。
日本の会計年度が4月から翌年の3月であることから、4月は新入社員が入社し、新入生が入学し、社員が転勤となり、退職者が新生活をスタートする時期にあたる。
様々な人生と様々な感情が交錯する状況から、桜の木の下は、日本人が自分の気落ちを表現し、苦しみを嘆き、涙を流す最高の舞台となる。
一本の桜の木の下に、親しい者同士が1年に一度集まり、その後バラバラに散っていく。
一緒に食べ、飲み、歌い、踊り、泣き、笑い、その姿はさまざまで、普段は決して見ることができない。
人々は春の情熱と楽しみを一緒に思い存分発散することは、生命と生活をめぐる日本人の一種独特の思考や文化を表現している。
▲補足、感想など
うまい文章だなと思った。ここまで日本人の奥底まで理解できる中国人がいるというのは、ある意味、恐ろしいことではある。
日本人の財産たる百人一首から「花」の歌をご紹介しよう。
--ここから--
久方の光のどけき春の日に しづこころなく花の散るらむ 紀友則
人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける 紀貫之
もろともにあはれとも思へ山桜 花よりほかに知る人もなし 大僧正行尊
花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり 入道前太政大臣
--ここまで--
ちょっと分かりづらいのは、花さそふ—かな。現代語訳をみてみよう。
--ここから--
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
ふりゆくものは 我が身なりけり
入道前太政大臣
※桜の花を誘って吹き散らす嵐の日の庭は、桜の花びらがまるで
雪のように降っているが、実は老いさらばえて古(ふ)りゆくのは、
私自身なのだなあ。
--ここまで--
もう、千年も前の歌なのだが、今もって、日本人の心に響いてくる。
なんだろうなぁ。これは---。
歌いつがれていくことで、日本人のdna
まで滲み込んでいくものか。