▲勝てないから—か。
まぁ、そうだろうなぁ。
でも、「勝てない」ということと「追い出す」とは直結していない。
勝てないのは、日本人が弱いからであり、その通りだ。
「追い出す」のは、「横綱としての品格に欠ける」からだ。
これのどこがおかしいか。
「横綱としての品格を保った言動をする」ことは、相撲というものが日本人から支持され、愛されつづけるための必要な条件なのだ。
その核心部分を見間違えるな。
以下、文章を抜粋。
2017年12月05日
【悲報】日馬富士問題、モンゴルでは大変な日本バッシング
モンゴルメディアや現地の人の意見はこんな感じ(ソースTV)
・貴乃花の行動が主原因であり悪い
・貴ノ岩のせいで偉大な横綱が退場させられた
・相撲協会の圧力
・日本人が勝てないからやっかみでモンゴル人を追い出した。
▲補足、感想など
モンゴルには、「人気のある・稼ぐ格闘技」というものがないのだろうな。
経験がないというか、どうして「相撲というものに人気があって、江戸時代から続いているか」--その理由が理解できないのだろう。
その部分が理解できないから、日本人バッシングということに繋がるのだ。
そもそも、「押出し」なんて、決め手で勝負が決まる-という格闘技が相撲以外に世界にあると思うか。
なんというかなぁ。
相撲という格闘技は、格闘技が本来的にもつ「毒」の部分を薄めて無害化しているのだ。
牙を抜いて、マイルドな格闘技へ変質しているのだ。
それは、江戸時代を通じて、観客を増やすための不斷な努力・不斷な改変がなされて、日本人好みの格闘機となったのだ。
日本人は血を見るのを嫌うし、荒々しいことが好きではない。
それは女性も子供も見るからだろうな。
荒々しさを排除して、代りに「品格ある言動」を要求するようになったということだろう。
こうして、日本人好みの格闘技として完成し、今に至っているということだ。
今度の日馬富士関の言動は、「横綱」としての「品格ある行動なのか」ということから、引退もやむ無しという結論となったものだ。
まぁ、妥当と言うべきだろうな。
こういう説明で、モンゴル人が納得しなければ、日本人としてはもう言うこともない。
モンゴル人好みの格闘技をこしらえて、そこで興行されたらと言うしかない。
大切なことを繰り返したい。
日本の相撲では、横綱は横綱なりの・大関は大関なりの、その地位にそぐう「品格ある言動」が求められる。
それは、日本人から愛され・支持されるための「必要な条件」なのだ。
相撲は、日本人からそっぽを向かれれば、そこでお終いなのだ。