2017年9月27日水曜日

大笑い。韓国人がノーベル賞でなにか言っている

いや、だから。
 韓国人って、ノーベル賞に適性がないんだって。
 いいではないか。
 民族それぞれに、特性というか、得手不得手がある。
 得手のところで勝負すればいいこと。
 ノーベル賞なんて、どうでもいいではないか。

 以下、韓国の新聞から抜粋。

 空に綿雲が漂い、野には穀類が秋の収穫を待っている。
 ノーベル賞は人類知性の秋の収穫だ。
 来月2日、ノーベル生理学賞発表から約10日の間、ノーベル文学賞まで発表が続く。
 せっかくの長い国民の休日が再び胸の痛みに包まれるようだ。
 隣国日本の収穫が豊かだったら、私たちの心痛がより一層深くなることは明らかだ。

 なぜ私たちはそのようにノーベル賞、特にノーベル科学賞受賞を首を長くして待つのか。
 産業発展を越えて科学自体の発展に私たちが寄与したという根拠はどこにあるのか。
 根拠もない、空しい期待ならこれからどうすべきか。
 科学界だけでなく韓国知性の革新はどこで可能なのか。
 この問いは全面的な省察と改革を要求する。

 経済発展「速度」に関する限り、私たちがノーベル賞級だ。
 しかし、経済学者の分析によれば電子、鉄鋼、自動車、造船産業の全ては全面的に先進国の追撃(catch-up)を通じて成り立った。
 率直に言って芸術、人文社会科学まで含んで韓国知性の全部が「追撃」を通じてこれほど先進国と肩をならべることになった。

 源泉知識を創り出す科学者よりまねる論文を量産する科学者、新しい音律を創作する希代の作曲者よりモーツァルト、ベートーベンの曲を演奏する演奏者、まだ2000年前の孔子とプラトンを詠じる人文学者がさらに多い理由を深く考えなければならない。

 私たちが誇る教育の熱意ないし教育能力の優位もこれ以上主張することはできない。
 文盲率は急激に減っており、それによる高等教育への進学は幾何級数的に増加している。
 私たちの高卒は年50万人に過ぎないが、米国では毎年350万人そして中国では1000万人が大学修能試験を受験している。
 世界にある有数の大学や企業で中国やインド出身者とぶつかって競争しないわけにはいかない状況だ。
 確率的に言えば個人能力を何で評価しようがそれに焦点を置いた優秀人材の絶対数で米国、中国、インドに追いつくことはできない。

 それならどうすれば科学自体の発展にも最先道国家になり、ノーベル科学賞受賞を期待できるだろうか。
 答えは、今は政治的スローガンに転落した科学者の創造力推進だ。
 しかし、創造力は個人の持って生まれた力量、例えば記憶力とそれに基盤を置いた学習力とはほとんど関係ない。

 人間の思考構造を理解すれば新しいアイデアをいくらでも建設できるから創造力は本当に後天的に育成できる能力だ。
 何より研究者集団のチームワークが個人はもちろん集団全体の創造力極大化に非常に効果的である点に注目する必要がある。

 米国科学翰林院もチームワークの重要性を認知し、2015年チームサイエンス(Team Science)推進案に関する報告書を発行して注目された。
 しかし、不幸にも全世界の行動科学界はチームワーク「実現過程」に対する核心をのがしている。
 韓国科学技術翰林院は昨年一年、集中研究を通じてチームワークに基盤を置いた創意研究改革案を発表した。
 効果的に統合されたチームの力量が一人一人の力量を合わせたより数十、数百倍大きな成果を出す姿をよく組織化されたスポーツチーム、ベンチャー企業、社会組織などでたまに見ることができる。
 それなら私たちが米国、中国、インドと競争できる科学発展も研究チームのチームワーク実現を通した創造力極大化に求める他ないという結論に至る。

 もはやノーベル賞で痛む胸を克服する方法は明確だ。
 チームワーク科学を通じて研究チーム全体の創造力を引き上げ、そのために「遅さ」の科学を許容することだ。

 この目標に合うように研究者集団の自律性保障と研究成果より研究過程、すなわちチームワーク実現過程に対する評価制導入が必要だ。
 そのような側面から科学者個人別の能力評価に基盤を置いた競争に追い詰める各種大学の評価はノーベル賞の期待にとって毒薬だ。
 新政府に新しい政策が必要な理由がここにある。

 キム・ハクスDGISTコミュニケーション学客員教授

補足、感想など

 なにか、ピントのはずれたような---
 いや、韓国人の判断だから、何も言うことはないが--

 ただ、いつも思うのは、韓国人って、数万回の「繰り返し」に耐えることができるのか?
 そうだな。
 1980年代半ばに、高温超電導物質というものが発見され、発見者はすぐにノーベル賞をもらった。
 そして、1980年代後半には、世界各国で、新しい高温超電導物質の発見に躍起となった。

 時々、新しい物質の発見が記事となるのだが、安定していないために、すぐにダメになるらしい。
 結局、1990年代始めには下火となった。

 数万回の実験を繰り返しても、モノにはならない場合も多い。
 つまり、「先の見えない」「数万回の繰り返し」に韓国人って耐えることができるのか?

 愚直といえば、愚直。
 
 そこに韓国人は、科挙制度の影響を受けて、肉体労働を卑しむであろう。
 コイツ、科挙にも合格しないようなアホだから、肉体労働をしているのだ—てな蔑視をする。

 自分で身体を動かすのが嫌。先の見えないような数万回の繰り返しをする根気もない—ということであろう。
 増してや、漢字を捨てることで、ハングルだけでは、高度に複雑な概念を、他者に正確に伝えることができまい。
 自らの漢字放棄という選択で、非科学性・非合理性へ傾斜しているのだ。

 だから。
 韓国人には、ノーベル賞には「適性」がない。
 
 適性のないことに、拘ったところで無駄というものであろう。
 人間と同じで、民族としての得手不得手があるのだ。
 「民族としての得手」のところで、勝負をすればいいことだ。
 デマ、捏造、嫌がらせなんて、得意中の得意ではないか。そこで勝負するというのも民族としての生き残りを賭けた選択だ。