2013年5月14日火曜日

日中韓で共通の歴史認識なんてできない。


▲できないものはできない。無理なものは無理。
 だから。
 そんな夢のような・バカバカしいことを考えるなよ。

 いや、韓国の新聞に、「日中韓で共通の歴史認識をつくろう」なんて、記事があったもので一言。
 合理性も知的正直とも縁のない中国人、韓国人とそんなものできる訳もあるまい。
 自分の言いたいように言えばいいではないか。

 日本人は無視するだけだ。

 以下、新聞から抜粋。


 丸山真男教授の『日本政治思想史研究』と『現代政治の思想と行動』を読み直した。
 いま直面している複雑な内外情勢の性格を正しく把握するうえでも、丸山教授の歴史を見る洞察力が役立ちそうだ。

 対決構図は危険水位に達している。
 事態がこうなった経緯を理解し、東アジアの平和に対する解決策を模索するために、韓国・日本・中国が歩んできた過去150年の歴史に対する共同の認識をつくることが先決条件といえる。

 近来の3カ国関係で葛藤の水位が高まっているのは、3カ国間の歴史認識の乖離から始まっているため、地域の繁栄のためには、この問題について深い省察の努力を傾けなければならない。
 帝国主義とイデオロギー時代がアジアに押し寄せてくる過程で、韓日中3カ国が経験した経験は、 今は、相互理解のための客観的歴史認識の対象にならなければならない。

 19世紀から1945年の敗戦にいたる日本の歴史の性格を解剖した丸山教授の業績は、こうした作業の模範になるだろう。
 儒教文化圏の中心である北東アジアで、徳川日本が、明治時代への転換の過程で、 個人や家族の道徳倫理と国家統治の規範の関係をどう設定したかに対する丸山教授の研究は、近代日本の国家性格を理解する近道を開いた。
 開港圧力を加える西欧勢力の脅威に直面した中、国家の独立と国民の統合を実現して富国強兵政策を推進するため、 多元的な分裂を一つにまとめる天皇制を選ぶことで、国家体制の精神的権威と政治権力を一元化するのに明治日本は成功した。

 その結果、民権が国権に埋没する臣民政治文化が制度化され、 日本式ナショナリズムは全体主義的帝国主義と軍国主義の道に入ることになった、ということだ。

 国民主権を放棄した日本ナショナリズムは、日本人の天皇に対する忠誠は帝国臣民の当然の義務として内面化するよう教育する一方、 外には日本帝国の膨張を通じて国民の窮乏と不満を心理的に補償する動力となった。

 天皇が象徴する正義を伝播するための戦争は必ず勝たなければならず、正義は常に勝つという倫理と権力の相互補完論理が日本ナショナリズムの軍国主義的侵略を後押しした。
 アジア民族の解放を目標にするという、いわゆる「大アジア主義」も、ただこうした日本覇権主義のスローガンだった。

 第2次世界大戦で敗亡したことで、日本は明治維新以前の島国に収縮し、帝国的なシンボルに集中した国家意識も軸を失って急激に退潮した。

 皇国観念が、米国の占領下では精神的真空状態に陥ることになったと診断した丸山教授は、 「平和文化国家」という国家像が果たして国民意識を牽引できるかと疑った。
 また日本ナショナリズムがいかなる形態であれ復活する場合があっても、植民帝国主義時代とは明確に違う基礎の上に立ち、 その他のアジアナショナリズムの流れを背に負うことは必ず避けるべきだということを、すでに60年前に説明していた。

 どの国であれ、外国の批判や忠告で歴史意識や国家進路が変わるケースはない。
 ただ国民自らの悩み、討論、省察を通してこそ、未来に進む道を見いだせる。
 とりわけ長くて関係が多い歴史を持つ韓日中3カ国の場合はなおさらそうだ。

 韓国はもちろん、隣国の中国や日本でも深い自省の努力があることを望む。
 ともに大変な歴史と伝統を持つ文化大国ではないか。

 60年前の敗戦後の混乱と沈滞の中で展開した丸山真男教授の冷静な、しかし進歩的な歴史認識と政治分析が、 今日どれほど有効かは断定できない。
 しかし日本だけでも丸山教授の知性あふれる著書がたくさん読まれることを希望する。

 李洪九(イ・ホング)元首相・中央日報顧問


▲補足、感想など

 ホォー、と思った。
 この人、韓国人の中でも、比較的、合理的・科学的にものが考えられる人なのだな。
 日本語にも不自由はなさそうだ。
 まぁ、この人、希少種中の希少種だろうなぁ。

 でも。
 もう一度、言おう。

 日中韓で、共通の歴史認識を形成することはできない。

 じゃ、この記事を書いた人は、韓国人に対してなにをしたのか。
 --日本だけでも丸山教授の知性あふれる著書がたくさん読まれることを希望する。 ---って。
 あぁ、韓国人は漢字が読めないから、記事にある本を韓国語に翻訳すらも不可能なのだろう。

 なにもかも、悪しきことが起これば、すべて他人のせい—といっているだけではないのか。