▲どうも、原発の再稼働についての議論が筆者には気に入らない。
筆者はどこにひっかかるのかなぁ。
どうも、「技術者が常識をなくしているのではないのか」--と思える。<いや、技術者ってしゃべるのが苦手な人間が多い。声の大きな政治家などと委員会等を構成すると、声の大きな人間の意見に押されてしまう--ということもあるのかもしれないな>
なにか、議論が粗雑で、極端から極端に振れるとでも言えばいいのかな。
最初にひっかかったのは、「津波の高さ」だ。
マグニチュード9.0の地震を想定して津波高さを出した頃かなぁ。
m9.0の地震なんて、1000年~1200年に一度くらいの頻度で発生するものだ。
理学系の科学者が、この地球上で発生しうる最大限度の地震を想定したものだ。
しかし。
その規模の地震に、なにもかも合わせて考えると、すべてが「過剰」となる。
事実、m9.0の地震を想定したとき、四国の南西部の町では30m以上の高さの津波がくると想定された。
ここらあたりだな。
ここで、「技術者の冷静な・実用的な目」が必要だ。
「費用対効果」という目でチェックすることが必要なのだ。
大きな地震がきた時。
もはや、全ての人を救うのは無理だ。すべての建物の損壊を防ぐことは無理だ。
そこで、「減災」という発想が生まれる。
上でいう「費用対効果」を考えつつ、死傷する人の数を減らす、復旧のスピードを上げる—という考え方だ。
考えてもみよ。
上で四国の町の例を紹介した。
この町の海岸沿いに高さ30mを越す堤防をこしらえるのか。
そんな無駄というか、過剰な反応を示すことができるわけもあるまい。
だから。
土木学会等が100年に一度の地震を想定するので充分だ—とかの意見を出していたと記憶する。
筆者もまったくの同感だ。
上で、四国の津波30mという例を示したが、長期的なスパン(例えば100年間くらい)で、町全体を標高の高いところに移動するとか、鉄道の敷設している標高をあげていく—とかを考えていくべきだろう。
同様に。
原発についても、福島で原発の事故が発生した → だから、原発ゼロだ という議論は、粗雑で極端に振れすぎる。
ここに、冷静な「技術者の目」が必要なのだ。
なにより、現在時点で原発に代替するだけのエネルギー源は見つかっていない。
すると、これからのエネルギー確保の方向性として。
あ、現にある原発を再稼働して、当面のエネルギーを確保しつつ、20年-30年の期間で、原発に代替するエネルギー源を探し、実用化する。
い、原発に代替するエネルギー源が実用化 → 稼働した時点で、原発をこのまま稼働(更に安全な原発を開発)させるか、それとも廃棄するか—を判断する。
これ以外に、これからの方向性としてはあるまい。
こう考えると、各政党の発言など、いったい、なにを考えているのか—と感じないか。
以下、新聞から抜粋。
与野党の幹事長による討論会が行われ、
参院選の争点となる原発政策や憲法改正をテーマに論戦を交わした。
自民党を除く8党が「原発ゼロ」を目標とする方針を示し、
自民党の石破茂幹事長は「ただ『脱原発』と国民を惑わすことを言ってはならない」と反対した。
石破氏は「原発依存度は下げる」としながらも、安全を確保した上で再稼働を進める考えも強調した。
対し、公明党の井上幹事長と民主党の細野幹事長、みんなの党の江田幹事長らは、
「原発ゼロを目指すか」との問いに賛成と回答した。
細野氏は、安倍政権による原発輸出推進について「民主党政権は東京電力福島第1原発事故後、抑制的に対応した。
安倍首相を筆頭に売って回ることには違和感がある」と批判。
江田氏は「原発を動かすほど増える核のごみの行き場は決まっていない。無責任だ」とし、
共産党の市田忠義書記局長も「原発事故は収束しておらず、再稼働も輸出もあり得ない」と訴えた。
憲法改正の発議要件を衆参両院の3分の2以上から過半数の賛成に緩和するための96条先行改正については、
石破氏と日本維新の会の松野幹事長が賛意を表明。
一方、細野氏は「改憲には3分の2の同意を得る努力をすべきだ。
先に要件を緩和するのは姑息だ」と指摘し、井上氏も「国民的議論が成熟して初めて発議できる」と慎重な姿勢を示した。
▲補足、感想など
原発ゼロねぇ。
だから。上で書いた通り。
20-30年後に、原発ゼロにするかどうか—を判断するというなら、まぁ、正しいだろうなぁと思う。
ただ、原発ゼロを目指す—というのは、原発に「代替するだけのエネルギーが確保」できるかどうかに掛かっている。
例えば、風力で、太陽光で、潮力で、原発に代替するだけのエネルギーが発生できるのかどうか--よく分からない。
原発の輸出については、世界で最先端の原発ができるのは日本-フランスくらいなものであろう。
日本の事故を踏まえながら、更に安全な原発を建設するということで、逆に日本として売り込みチャンスといえよう。
原発の「核のゴミ」が増えつつあるのは確かだ。
しかし、世界中の原発を稼働させているところはそうなのてあって、そこにニーズがあるというべき。
これから、どう処理、ないし、どう廃棄するのか—外国を含めて協議していけばいいことではないか。
憲法改正について、3分の2ではあまりにハードルが高すぎる。そこで過半数にしよう—という議論であるが、確かに3分の2の賛成を得ることは難しかろう。
過半数でいいじゃないか—という議論には「説得力」がある。
いや、話がどこかにいった。
筆者の一番ひっかかったのは、「原発ゼロ」という表現なのだ。
国民の大多数が「原発ゼロ」ということに賛成なら、筆者も反対はしない。(まぁ、日本人がより安全な原発の開発の携わらなくて、どこの国がやるのだ-と筆者など思う。原子力という効率的なエネルギー源を見捨てることは人類の進歩を遅らせると思うが--)
しかし。
原発ゼロと判断するためには、上で筆者がふれた「工程」が必要なのだ。
それだけの道筋を辿って、ようやく、原発ゼロにするかどうか—というところまでたどり着くのだ。
そのことを「認識」して欲しい。