▲ジブリの宮崎さんが、声優のスキルについて話をしている。
その記事を読みながら、戦前の力士である双葉山の表題の言葉を思い出した。
技術というものを身につけることはたいへんだが、「技術」が余りに前にでると、「私、うまいでしょう」という感じとなる。
その段階を乗り越えることができるかどうかが、一流と二流の違いなのだろうなぁ。
以下、記事から抜粋。
ホリエモンが「声優ってそんなにスキルいるんかえ?って」
宮崎監督も、そんなふうに思っているのだろうか?
宮崎駿監督は、プロ声優をあまり使わない。
最新作『風立ちぬ』、
主役の声を担当するのは庵野秀明だ。
『新世紀エヴァンゲリオン』等のアニメ監督だ。
なぜ? なぜ庵野秀明?
劇場用アニメーションでは、プロの声優ではない人が起用される。
「話題作り」というヤツだ。
有名人が、「声もがんばりました」とか言って、ワイドショーに取り上げられる。
そのために登場する、というヤツだ。
だが、宮崎駿作品のケースはそうじゃない。
『風立ちぬ』の庵野秀明は主人公の声である。
話題作りでちょいと、ってレベルじゃないのだ。
『となりのトトロ』のおとうさんの声も、プロの声優ではない。
糸井重里。コピーライター。
これまた、重要な役どころだ。
『となりのトトロ』には、
「どうして糸井重里がとうさん役に抜擢されたのか」が詳しく描かれている。
インタビューによると、最初はプロの声優を使うつもりでオーディションもしていたらしい。
だが、宮崎監督はテープを聞いて、こう答える。
「やっぱり普通のお父さんになってしまいますね」
『トトロ』に出てくるお父さんは子供と友達でいられるお父さんで、いわゆるお父さん的なイメージとは違うんだ、という説明を受けて、音響監督は、別の人を探そうとする。
が、すぐに「糸井さんはどうですか」と宮崎監督から提案の電話がかかってくる。
もちろん音響監督は「えーっ!!」である。
不安はありましたか?という質問に対してこう答える。
「ええ、声をあてるのは、特殊な能力を要求されるんです」
宮崎駿自身も、糸井重里との対談の中で「ほんというとドキドキしていたんですよ」と言っている。
なぜ、そんなにも大きなリスクをおかしてまで、糸井重里の起用なのか?
宮崎監督は、糸井重里との対談で、こう語っている。
「声優さんの声をいろいろ聞いてみたんですけど、みんな、あったかくてね、
子どものことを全面的に理解している父親になりすぎちゃうんですよ」
それで、「これはどこか別のところから人を連れてこなくちゃいけないって話になりましてね。
糸井さんがいいっていったのは、ぼくです」
声についてこういうことも言っている。
「映画は実際時間のないところで作りますから、声優さんの器用さに頼ってるんです。
でもやっぱり、どっかで欲求不満になるときがある。存在感のなさ
みたいなところにね。
特に女の子の声なんかみんな、
「わたし、かわいいでしょ」みたいな声を出すでしょ。
あれがたまらんのですよ。なんとかしたいといつも思っている」
これに対して、糸井重里は「逆にぼくらはアニメっていうのは
ああじゃないといけないのかなっていうふうに思ってたんですよね。
芝居もそうだけど、過剰ではないと伝わらないわけでしょ」
おそらく、ここで二人が指し示しているのが「声優のスキル」に関わる部分だ。
実際に、父親役の糸井重里の声は、おとうさんっぽくない。
教科書的なおとうさんとしては失格っていう感じすらする。ちょっと不安定で、
世慣れていない。
「となりのトトロ」演出覚書の父の項には、こう書いてある(『出発点』P405)。
“実生活のバランス感覚に欠けている部分があって、その負担を娘達に
おしつけているのだが、今はそれに気づかず、仕事に没頭している。”
声優的な巧さよりも、声優ではない不安定さが必要だったのだ。
アニメ「NARUTO」の声優竹内順子は、声優の仕事について、インタビューでこう答えている。
竹内 例えば、振り返るときに「んっ」って言って後ろを向いたり、
そんな人間いないよって初めは思ったんですよ。
──
普通だったら何も言わずに振り返りますからね。
竹内 でもアニメはそれも一つの様式美で、お客さんに対して音として指定する
解りやすいサインだと思ってやるようになったんですけど、普段出してない音
だったので、最初は意味がわからなかったです。
「こ、これは!?」の最初の「こ」はなんだよ! とか、悪者の最初の台詞は
なんで「ハハハ」から始まるんだろうとか、いろんなところが引っかかってはいたんですよ。
宮崎駿は、そういった声優独特の「様式美」に不満を持っているのだろう。
声優にスキルはいらないとは思っていないだろうが、定型になってしまったところに
安住してしまうようなスキルなら不要だと思っているのではないか。
“どこか別のところから人を連れてこなくちゃいけない”と思ったのは、
型通りの父親像にはめ込んでしまわないための冒険だったのだ。
宮崎駿作品は『となりのトトロ』以降、どんどん主要人物を担当するのがプロ声優ではなくなっていく。
▲補足、感想など
確かに「技術は必要」だけれど、その技術に甘えてしまうと、「新鮮味」を失う。
技術が先にたつと、「自然さ」が薄れる—とでも言えばいいのかな。
多くのお客さまの心をつかむためには、あるレベルの技術を基礎にして、プラスアルファが必要だ—という意味かもしれないな。
冒頭で、未だ木鶏たりえず—と書いたが、さて、ピント外れかなぁ。
あぁ、木鶏の意味も転記しておこう。<なお、木鶏とは木で造型した鶏のこと>
--ここから--
故事では紀悄子という鶏を育てる名人が登場し、王からの下問に答える形式で最強の鶏について説明する。
紀悄子に鶏を預けた王は、10日ほど経過した時点で仕上がり具合について下問する。
すると紀悄子は、
『まだ空威張りして闘争心があるからいけません』
と答える。
更に10日ほど経過して再度王が下問すると
『まだいけません。他の闘鶏の声や姿を見ただけでいきり立ってしまいます』
と答える。
更に10日経過したが、
『目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません』
と答える。
さらに10日経過して王が下問すると 『もう良いでしょう。
他の闘鶏が鳴いても、全く相手にしません。
まるで木鶏のように泰然自若としています。
その徳の前に、かなう闘鶏はいないでしょう』 と答えた。
--ここまで--