▲原発の安全神話なるものはどこに核心があるのだろう。
第一、なにか日本人をバカにしたような話ではある。
誰かが、原発は絶対安全だ—とかのフレーズを考えて、これに固執したのだな。
技術者なら、故障しない機械などある訳もない、事故を起こさない機械なぞ存在するかい—とか思うが、この部分を「女子供相手のウソ」をつき通したということなのだろうな。
安全神話との決別とは、「機械は必ず故障する」という言わば、当たり前のところにやっと、言い方を変えたというか、常識的になったということだ。
なんだろうなぁ。
臆病というか、文系のよほど頭を回る人間が考えたのだろうなぁ。
以下、新聞から抜粋。
東京電力福島第1原発事故後の4年5カ月。
原発をめぐって、日本は何をしてきたのか。
安全対策を見直し、利益共同体となっていた“原子力ムラ”を解体した。
ただ再稼働に対する国民の理解が得られているとは言い難く、反対意見も根強い。
原発事故前と変わったのは、平成24年9月、原子力安全・保安院を分離・解体し、独立させた「原子力規制委員会」を発足させたこと。
「規制のレベルが革命的に変わった。安全というものを追求する態度はできてきている」。
規制委の田中俊一委員長は、規制機関に対する国民の信頼回復が道半ばであることを認めて、答えた。
原発事故は、国会の事故調査委員会が「天災ではなく人災だ」と指摘したように、規制機関が「電力会社のとりこになっていた」ことが一因。
規制委が取り組んだのは、新たな規制基準の策定。
田中委員長が「世界で最も厳しいレベルの基準だ」と強調するほど、新規制基準では、地震や津波など自然災害の想定を大幅に強化し、想定すらしなかった過酷事故対策も設けた。
新規制基準に基づく審査では、「厳しすぎる」と事業者が嘆く中、当初の「半年」から大幅な時間が経過。
川内原発でさえ、申請から全審査終了まで1年10カ月。
使用前検査を経て最終的に再稼働を果たすまでに2年1カ月もかかった。
審査の遅れは、規制委側の効率性の問題が指摘されるものの、審査官と事業者の“真剣勝負”が繰り広げられている結果でもある。
原発の安全を図る上で重要な決定は25年に規制委が策定した「安全目標」だ。
炉心が損傷する程度の事故を「1万年に1回」▽格納容器の機能が喪失した程度の事故を「10万年に1回」▽放射性物質の放出が抑えられない過酷事故を「100万年に1回」-とする目標を掲げた。
事故の頻度を数値で示したこと自体が画期的。
「原発には事故のリスクがある」と国が認めたものであり、事故は一切起こらないとする「安全神話」との決別だった。
こうした安全目標はカナダ、フィンランドなどにもある。
規制委の更田委員長代理は「工学的に達成可能な数値」と話しており、原発規制はようやく世界水準に追い付いた。
▲補足、感想など
福島原発の事故は「人災」って。
あの黒川さんの委員会か。
それは、どうかな、と思う。
黒川委員長の意見を聞いた時、この黒川さんって頭が良すぎるのだな、と思った。
オレの知らないことはない・オレの分からないことはない—という態度だったからだ。
インデペンデンス・デイとかいうアメリカ映画で例えた。
ある日、上空を殆ど覆い隠すほどの大きさの円盤が出現し、地球を襲うと言う話だ。
こういう事態に遭遇した時、通常人がまともに判断できるものなのか---。
そこに人間としての能力の限界のようなものがあるのではないのか—と筆者は、黒川委員長の文章を読みながら論評した記憶がある。
まぁ、人災というなら人災でもいい。でも、天災に極めて近いというかもう人知の及ぶぎりぎりの災害であったことは確かだ。
規制委員会の基準が厳しくなったというのはその通りだろう。
しかし。
活断層?などの扱い、周辺?の火山からの影響など、これはもう子どもだましの「妄想」に近いと感じた。
確かに、リスクが皆無とは言わない。
活断層にせよ、火山からの影響でも。
それでも、技術者の目からみて、もう、原発技術者に対する「嫌がらせ」としか思えないような基準だなと思った。
悪くいえば、後から「規制委員会はこんなリスクさえ想定していなかったのか」てなことを言われたくないために、嫌がらせに近いものまでピックアップしたのではないのか。
考えてみれば、規制委員会というものは、日本のエネルギー政策を左右するだけの機関なのだな。
お金を扱う「日本銀行」と同じレベルであろう。
規制委員会の委員長の報酬を、日銀総裁と同じくらいの報酬にせよ。
それだけの重い責任を負い、判断しているのだ。
報酬は軽く、責任だけ重い—というような規制委員会であってはなるまい。