▲表題は、じゃ日本人はどうなんだ? と続いている。
でも。
日本人は、別に無宗教という訳ではない。
そりゃ、表面上は仏教等というけど、宗旨を信じている—というのとは違うなぁ。
お天道さまがみている—てな感覚が一番近いかな。
なんとなくスピリチュアルなものを感じているということだろうな。
以下、新聞から抜粋。
宗教が絡む対立は古代から存在する。
仏教やキリスト教も、歴史的に抗争を起こしてきたのである。
異なる宗教・宗派の共存というのは、人類の永遠のテーマなのかもしれない。
中国メディアは、「どうして日本の人口は1億人なのに、宗教の信者は3億人になるのか」と記事を掲載。
記事は、中国人の道徳が低いのは宗教信仰がないからだとの意見があると。
宗教道徳は超越性を持つゆえ、「宗教信仰は道徳修養を高めるのに作用がある」と論じた。
しかし一方、「日本の宗教について考えると、道徳の行程と信仰の有無には必然性がないことに気づく」と説明。
その謎を解く手がかりは、「1億人の日本に、3億人の信者」、「1人の日本人が3つの宗教を信仰する」状況であることに言及。
記事は、神道・仏教・キリスト教が現代日本の3大宗教であり、日本人の多くは「出生時には神社に詣で、結婚では教会に行き、死ぬときにはお寺が管理する墓地に埋葬される」という宗教的行動を取ると説明。
明治維新以降、神道が国教とされ勢力が増したものの、大戦後の日本国憲法で信仰の自由と同時に神道を国教としないと定められ、日本の宗教信仰は多様化することになった。
そして、日本の宗教の発展過程が、中国の状況と似ていると分析。
中国と日本は中世に一神教の信仰を経ておらず、宗教が多元化、一方で、「しかし日本人の道徳レベルは非常に高い」と指摘。
似たような状況でありながら道徳レベルに差があることで「中国は今、道徳の問題の答えを宗教信仰の不足に求めてはいけない。道徳づくりが必要なのだ」と論じた。
国の道徳レベルの原因を宗教に押し付けてしまうのは乱暴な論理であり、記事の主張は一理ある。
しかし一方、日本の国家神道が日本人の道徳観念を作り上げる基本となったことは間違いなく、国家神道が廃された戦後においても影響が残っている。
国家神道は宗教とは異なるとの議論も残ってはいるが、宗教が国民の行動規律やモラルを作り上げるのに一役買っている、という点もないがしろにしてはいけない。
▲補足、感想など
なにか、根本的なところで、ボタンの掛け違いのあるような記事だと思える。
宗教以前の問題として、日本は島国であり、異民族からの支配を受けたことがない。
それに競べ、中国では北から剽悍な遊牧民族が繰り返し繰り返し、襲ってきて、その度、王朝が変わってきた民族だ。
日本の縄文時代なんて、全国で数十万人という世界であろう。
いわば、数十万人 → 一億数千万人 まで、なかよくやってきた民族なのだ。
だから。
日本の歴史では血腥い話が少ない。
掲示板の書き込みを転記してみよう。
--ここから--
一つは長い稲作文化の影響
村を挙げての耕作には自分達の水田だけ耕してるだけじゃ済まないし、家を建てるにしても屋根の茅を葺くのも村人総出でやる、運命共同体だから。
他者無しには生活出来ないので、より他者へのリスペクトが強まる。
アメリカ人はその様な生活の期間が短かかったし、その労働力を奴隷により供給できた。
アーミッシュは極端だが、キリスト教社会に於いての運命共同体を色濃く残してる。
また、現代アメリカ人の約4割はキリスト教福音派であり、ある意味、キリスト教原理主義の教義を基に生活してるので、宗教観的には他宗教に対しては非常に排他的且つ差別的に排斥する現実がある。
それは、イスラム教原理主義者と変わらない程度の宗教的素養しかない事を証明してしまっている上に、単純で時にはドラスティックでヒステリックな反応をする事にも繋がる。
日本は元来、それぞれの土地での土着信仰だったが神道という器に全ての土着信仰が乗っかり、強制や教化の過程を経験せず宗教改革を成し遂げたので、他の宗教には寛容で、八百万の神が共存し、仏教も仏教と共にもたらされた技術系と共に受け入れ、更には儒教が入っても朱子学から武家社会に発展、リスペクトする事により神道を敬い仏教伝来と共にやってきた技術体系を駆使し、武家社会の厳格な礼儀と作法がそれぞれに昇華されて現代に残っている。
日本人は無宗教ではなく、非常に宗教的な暮らしを日常生活の中で体現しているのだが、外国人には無宗教に見える。
例を上げると、日本人の多くは、食事の前に神に祈ったりはしない。
『いただきます』とは、すなわち『命をいただきます』という事であり、何によって生かされているのかを厳格な作法として認識し、生活の礼儀としての宗教観を持っている。
多分、それはアメリカ人には理解不能だろう。
2011年05月26日
--ここまで--
もう、一つ、ご紹介しよう。
--ここから--
日本では森羅万象に神が宿ってると考えている
山にも川にも水にも木にも石ころさえもだから人間にも神が宿っていると考える
何でも神様の側面にすぎず、神様は根源まで遡ればひとつだろうけど、無数に存在している
だから善悪それぞれに道理があって、これが絶対唯一では無く可能0性でしかないということを知っているのだと思う
八百万の神々や死んで神々のひとりとなり、祭られた歴史上の人物や、仏教の仏様達や無くなった仏達にお参りをする
日本人にとってはキリスト教も数多くある神の側面にすぎない
宗教の成り立ちを見ると、アミニズム→多神教→一神教となる
アミニズムは動物も植物も原初の人間も知覚することの出来た大いなるものを純粋に讃えていた
多神教になるとエジプトの神々やギリシャや仏教みたいに神を人格化していったけど、まだ多様性と寛容さは失われずに、エジプトとかも動物さえも神の化身であることをまだ知っていた
ユダヤ教やキリスト教やイスラム教になると、唯一の聖典を拠り所にして、人が神に次いで全てのヒエラルキーの一番上にいて、その頂点がキリスト教で、未開なものを統治しなければならないとして、残酷な地球的な粛清に繋がった
人を生まれながらの罪人にして、神はそこら中にも動物や植物の中にもあなたの中にもいるということを否定し、切り離させ、次に時の権力者が人々を統治しやすいように、宗教会議で何度も訂正していった
そういうのを考察すれば、宇宙や地球や森羅万象に普遍的な根源に近いアミニズム(神道)の純粋さや素晴らしさが身に染みるよ
日本は八百万の神々と多くの仏様達による神仏両方の国だというのを、あちらの人達は分からないんだな
2011年05月26日
--ここまで--
アメリカ人との比較、キリスト教との比較の中で、日本人のもつ「宗教観」の特異さが際立つようだ。
冒頭での中国人の日本人が持つ宗教観への理解の浅さが分かろう。
北方からの異民族の来襲から逃げ惑ってばかりの中国人には、こういうスピリチュアルな世界の歴史さえ、雲散霧消してしまうのだろうな。
その結果として、価値あるものはお金だけ—その他のことなど知った事か--という北斗の拳ばりの荒涼たる無法社会で暮らしているということだろう。